ヨーロッパの地方都市を転々とした挙げ句、ポーランドに流れ着いた管理人「B」の日常。音楽、美術、風景、食べ物など、美しいものや変わったものを追いかけて味わうのが好き。
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美しいものや変わったもの、美味しいものを追いかけるのが好きです。日々の生活で接した、そうしたものへの感想を綴っていきます。過去の記事であってもコメントは大歓迎です。メールはこちらにどうぞ。
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2014年 11月 06日
ロンドン、ロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)で上演されたモーツァルト「イドメネオ」新プロダクションの初日(2014年11月3日)を観た。前衛的な作風で知られるオーストリアの演出家、マルティン・クシェイを迎え(これが英国デビュー)、指揮はこれまたROHデビューとなるマルク・ミンコフスキ、現代ではメゾソプラノが歌うのが通例になっているイダマンテ役にカウンターテナーのフランコ・ファジョーリ(ROHデビュー)を起用したという話題のプロダクションだ。メゾでなくカウンターテナーをキャストした理由は、父と息子の関係をよりリアルに伝えるためという。リヨン歌劇場およびアントワープ歌劇場との共同制作。 非常に意欲的な作品なのだが、結果的にはROHのお客の一部には受けず、初日に演出家へのマイルドな(笑)ブーイングが飛ぶという結果になった。もっともクシェイ本人はそうした事態には慣れっこで、想定内の出来事だったようだが。 あらすじ以上のように、このオペラ・セリアはギリシャ神話を素材に、海神や怪物といった超自然の存在が跋扈するファンタジーだが、レジーテアター(ドイツ語圏の演出主導の舞台芸術)の旗手であるクシェイは、海神も怪物も登場させず、ストーリーを現代に移し替えた。そして専制君主の父親と、父親が戦争で不在の間に平和な国を作ろうとしたリベラルな息子との相剋と権力抗争という図式にした。 もっとも、この切り口は決して新しいものでもなく、啓蒙思想が花開いた18世紀ヨーロッパでは、「イドメネウス」の物語に「支配階級」や「罰する存在としての神」からの解放というテーマを見出したのだと古代史家のマルティン・ツィンマーマンは指摘する。(Martin Zimmermann, "Between Violence and Lies," the Royal Opera House "Idomeneo" programme, 2014, p23) イドメネオは、いるはずのない海神との約束を口実に、政敵になりそうな息子イダマンテを抹殺しようとする。その企みは破綻し、物語のエンディングでは失脚したイドメネオにかわりイダマンテが王位につく。それまでの善良な王子の顔から打って変わって不敵な顔つきで君臨するイダマンテ。彼の手は血まみれの壁に触れている。ひとたび権力を握ると、その手は血で汚れてしまうのだ。 舞台セットはシンプルで、モノクロームの壁状の構造物が回転する廻り舞台で進行する。戦に破れ捕虜になったトロイア人たちは半裸で、銃を肩にした黒ずくめの男たちに小突き回されている。囚われの身になったトロイア王女イリア(Sophie Bevan)は太ももも露わな白いドレス。清純な乙女にふさわしいリリックなソプラノの役だが、後では恋人の父親であるイドメネオを誘惑するシーンも出てきて、やっぱり一筋縄ではいかない演出。 イリアを見初める王子イダマンテ(Franco Fagioli)の役は、初演時は駆け出しの下手っぴなカストラートが歌っただけに(モーツァルトはそれを愚痴る手紙を書いている)、持ち歌は平易なものだ。それだけに、技巧でなく感情表現やドラマ作りで評価してもらわねばならない。ファジョーリの流れるようなレチタティーヴォはよく感情がこもっていたと思うのだが、翌日のある新聞評に「ディクションが悪くて言葉が聞こえない」と書かれちゃったのは、何故か(英国人にイタリア語のディクションを云々されるのも不本意なことかも?)。 イドメネオのMatthew Polenzaniは絶好調で、豊かな声量でよく響く歌唱だった。私は舞台に近い席にいたので、海神との約束で愛する息子を生贄にしなくてはならない、と嘆いてみせつつ顔はほくそ笑んでいる、といった細かい演技が手に取るように見えて面白かった。 ストーリー上は最後に登場する大司祭(Krystian Adam)は、イカれたヒッピーのような姿で狂言回し的に舞台を駆け巡る。イダマンテに恋し、イリアに激しい嫉妬心を抱くエレットラ(Malin Bystrom)は、「パルプ・フィクション」のユマ・サーマンを思い出させる黒髪のボブカット。終盤の怒りのアリア「D'Oreste, d'Ajace ho in seno i tormenti」は、さながら狂乱の場の迫力があった。が、それより前にイダマンテとのからみで、彼に馬乗りになってズボンのジッパーを下げる(写真参考)狼藉を働いたのは、いささかやり過ぎではないかと思う。 一番の喝采を浴びたのは、忠臣アルバーチェ役のStanislas de Barbeyracかもしれない。壊れた眼鏡をかけたアコーディオン弾きの出で立ちで登場するのだが、明るい美声のテノールで、ROHのお客はこの日、思わぬ掘り出し物を見つけたという気持ちになったのでは。 このオペラには終盤に長いバレエ音楽が入っているが、今回の演出ではダンサーを登場させず、音楽だけを演奏するという方法が取られた。そして、その音楽に合わせて次のような謎めいた言葉が舞台に映写された。 Utopias fade.この手法は一部の批評家の反感を買ったようで、「勿体ぶっている」とか「陳腐だ」といった評を目にした。 ちなみに翌日に出た英国の主要紙でのオペラ・レビューの評価は次の通り(紙名から当該記事にリンクを貼った)。評者によって評価に大きなばらつきがある。それだけ、問題作なのだともいえるだろう。 The Times (by Richard Morrison): ★1個(満点は5個) The Independent (by Michael Church): ★3個(同上) The Guardian (by Andrew Clements): ★3個(同上) The Telegraph (by John Allison): ★3個(同上) The Financial Times (by Laura Battle): ★4個(同上) スタッフ #
by bonnjour
| 2014-11-06 12:56
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2014年 06月 06日
ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭では本日(6月6日)、フランコ・ファジョーリがモーツァルテウム大ホールでロッシーニとマイヤーベーアのアリアのリサイタルを開いた。カストラートの歴史の終焉を飾るかのように19世紀に活躍した歌手、ジャンバチスタ・ヴェルーティ(1780-1861)のために書かれた作品を中心にしたプログラムだ。オケはディエゴ・ファソリス指揮のイ・バロッキスティ 。
最初にマエストロ・ファソリスより、プログラムの演奏の順序が変わったことがアナウンスされた。変更後のプログラム構成は下記の通り。最初に演奏された「パルミーラのアウレリアーノ」の序曲は、有名なあの序曲の元ネタなので、誰にとっても馴染み深いメロディで、導入部としては最適だったと思う。 Gioachino Rossini - Ouverture to the opera Aureliano in Palmira 揺るぎのない技術と音楽性に支えられた、恐るべき完成度。そして極めて官能的な歌唱。甘美で眩暈のするような時を過ごした。そんな思いは誰にも共通していたようで、カーテンコールでは観客が総立ちになった。 (現時点ではとりあえず写真だけアップ。後ほど加筆します)。 #
by bonnjour
| 2014-06-06 11:08
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2014年 06月 05日
聖霊降臨祭音楽祭のザルツブルクに昨日から来ている。昨夜は初日で、チェチーリア・バルトリが主役のロッシーニ「チェネレントラ」を見た。彼女が音楽監督を務める音楽祭の、今年のテーマは「Rossinissimo! 」。訳すなら「めっちゃ、ロッシーニ!」とでもいおうか。 バルトリ演じるアンジェリーナ(チェネレントラ)が働く継父ドン・マニフィコの屋敷は現代のカフェテリアに読み替えられていて(演出:Damiano Michieletto)、ジーンズにエプロン姿で食器の片づけや掃除に追われる。ラミロ王子の舞踏会が開かれるのは「Palace」というネオンサインのかかったディスコ。ポップな色彩で楽しい舞台だった。 バルトリはもちろん存在感も技術も突出しているのだが、王子役のメキシコ出身のテノール、ハビエル・カマレナの張りのある美声にノックアウトされた。高音をヒットしたときなんて、会場のガラスが割れるんじゃないかと思った。ジャン・クリストフ・スピノジ率いるアンサンブル・マテウスの、活き活きした演奏も素晴らしい。 Jean-Christophe Spinosi, Conductor #
by bonnjour
| 2014-06-05 18:28
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2014年 05月 07日
生まれつきの怠け者ゆえ当ブログを放置プレイのまま、気がついたら1年以上経過していた。一発芸のTwitterのほうが楽なので、そっちに流れていたということもある。最後の投稿がモーツアルト・ネタだったので、またモーツァルトで放置状態からの脱出を試みてみたい。 …と、こじつけは置いておいて。 フランスはロレーヌ地方ナンシーの国立歌劇場で上演されたモーツァルト「皇帝ティートの慈悲」新プロダクションを観た。英国リーズのOpera Northとの共同プロダクションで、リーズでは一足早く昨年上演されている。リーズ版との大きな違いは、セストとアンニオという、通常はメゾ歌手がズボン役として担当するキャラクターを2人のカウンターテナーに歌わせたという、思い切ったキャスティングだろう。なお、作品の初演時にはセストはソプラノ・カストラートが、アンニオは女性歌手が歌ったので、半分はオリジナルに戻ったわけだ。ジョン・フルジェームズの演出は、原作のローマ時代を現代に置き換えたもので、モノトーンのシックなセットや衣裳(コナー・マーフィー)とあいまって、スタイリッシュな舞台になっている。 指揮: Kazem Abdullah あらすじ さて、フランコ・ファジョーリによるセストと、ユーリ・ミネンコが演じたアンニオだが、この配役は大成功といってよいだろう。カウンターテナーとしての卓越した技術と高い音楽性を備えていることはもちろん、この二人の声はとても相性がいいのだ。彼らが変わらぬ友情を歌い上げる二重唱「Deh prendi un dolce amplesso(ああ、やさしく抱き合おう)」は、3度と6度のハーモニーが身震いするほど甘美だった。メゾ二人がハモるのとはまた違った、力強さを感じさせる歌唱である。それに、視覚的にも男役の「中の人」が本物の男性というのはしっくりくる。余談だが、ワイルドな長髪のカツラをつけたファジョーリは、人気のあのイケメン・テノールにちょっと似てる瞬間があるじゃないかと(ごく局地的に)話題になった。 髪の存在って、すごい。 ナンシー歌劇場といえば昨シーズンにカウンターテナー5人プラステノール1人という男性歌手だけの絢爛豪華バロック歌謡ショウ(と呼びたい)、ヴィンチの「アルタセルセ」で話題になったが、ファジョーリはそこで超絶技巧を披露して観客をあっけにとらせた歌手だ。今回のセスト役では、有名なアリア「Parto, Ma Tu, Ben Mio(私は行く、でも、いとしいあなたよ)」の見事なコロラトゥーラは勿論のこと、皇帝暗殺を悔いる長丁場のレチタティーヴォ・アコンパニャート「O Dei, che smania e questa(おお、神々よ、これは何という狂ったことか)」のドラマチックな表現力と緊迫感に釘付けになった。 一方、ミネンコも「アルタセルセ」に出ていたが、敵役であまり派手なアリアもなかったので、ちょっと影が薄くて気の毒だった。今回は彼の魅力である温かみのある豊かな声が十分に生かされて、本領発揮となったのは嬉しいことだ。 ティート帝、テノールのベルナール・リヒターは、気品ある声で正統派モーツアルト・テノールの風格があった。ヴィッテリア役には、そのエキセントリックな性格を反映した、上と下に恐ろしく音域が広く大胆な跳躍もある難曲のロンド「Non piu di fiori vaghe catene(花の美しいかすがいを編もうと)」がある。これを歌ったサビーナ・クヴィラックには、ただ、ただ、お疲れ様と声をかけたい。アンニオとの愛を貫くセルヴィリア役のベルナルダ・ボブロは、優しくも芯の強い女性というキャラを、その可憐な声でよく表現していた。 なお、初日のオペラ評が4月30日付のフィナンシャル・タイムズに掲載されており、かなり好意的な評価をしている。フランコ・ファジョーリの大ファンとして情報普及活動に尽力しているアルチーナさんのブログで、その日本語訳が読める。 #
by bonnjour
| 2014-05-07 13:56
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2013年 03月 10日
『モーツァルトとナチス-第三帝国による芸術の歪曲』(エリック・リーヴィー著、高橋宣也・訳、白水社・刊)。神に愛された天才モーツアルトと、極悪非道の象徴のようなナチスの名を並べたタイトルからして、興味を惹かれる。昨年の12月に日本語訳が刊行されたこの大著を読んでみた。 【目次】 内容を一言でいえば、国民の心を操縦するために巧みに芸術を利用したナチスが、あのワーグナーばかりかモーツァルトまで使ってアーリア民族の優越性を宣伝していた、というあまり知られていない事実を考察したもので、オーストリア併合(1938年)以前から第二次世界大戦後に至る時間枠の中で、膨大な資料を使った検証が行われている モーツァルトはドイツではなくオーストリア人(正確には、大司教領だったザルツブルク出身)で、ナチスが忌み嫌うフリーメイソンの会員であり、あろうことか代表作はユダヤ人台本作家(「フィガロ」「ドン・ジョバンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」のロレンツォ・ダ・ポンテ)とのコラボレーションである。そんな人物をナチスのプロパガンダに使おうというのだから、音楽学者を総動員して牽強付会、事実歪曲、言語道断、笑止千万な(四字熟語は続くよ)情報工作を行い、モーツァルトをアーリア文化の権化にする必要があった。 例えば、憎きユダヤ人ダ・ポンテが台本を書いたイタリア語オペラはドイツ語訳で上演された。もっとも、ドイツの歌劇場ではイタリア語オペラの母国語上演は18世紀以来の伝統だったのだが、都合が悪いことに、最も出来がよく普及しているドイツ語訳はユダヤ系指揮者の手によるものだった。そこで、ドイツ人による「アーリア」的なドイツ語訳を作成するプロジェクトが生まれた。もう、ドタバタ騒動といってよいではないか。 その一方、ナチスに国を追われたユダヤ系音楽家たちにとっても、モーツァルトは人道主義や啓蒙主義の象徴として心の支えだった。彼らはナチスによるモーツァルトの歪んだ政治利用を糾弾する。例えば、ドイツが1938年にオーストリアを併合する前のザルツブルク音楽祭では、ナチスに迫害され国外脱出を強いられたドイツ系ユダヤ人指揮者ブルーノ・ワルターの振るモーツァルトが、反ナチス運動の象徴のようになった。 げに恐ろしきは、人類共通の財産であるべき芸術作品を、厚顔無恥にも政治利用する人々の存在である。それはナチスの専売特許ではない。今も、どこかでその企みは行われているはずなのだ。だからこそ、この本は単に近代史の一エピソードを掘り下げただけでなく、将来に向けての警鐘と捉えることもできるだろう。 そういう意味では、この本で最も読み応えがあるのは第9章のエピローグだ。そこでは第二次世界大戦後に、モーツァルトがドイツ人でなくオーストリア人として捉えられるようになったこと、その背景にはオーストリアが戦後になって、往時のナチズムへの加担という問題と決別する必要があったことが語られる。そして、作者が「不穏な継続性」と表現する、オーストリア併合後のナチスによるモーツァルト利用に加担しながら、戦後もちゃっかりとオーストリアの文化界を牛耳った人物たちの存在。 オーストリアはナチスに協力したのではなく犠牲者だったというポーズを外に向けて取りながら、人道主義の象徴として国のブランド・イメージに利用されるのも、またモーツァルトなのである。そして21世紀に入り、さらにモーツァルトはヨーロッパ統合の象徴としても使われるようになる。困ったときのモーツァルト頼みというか、汎用性抜群の超優良ブランドというか…。 著者のエリック・リーヴィー(Erik Levi)はロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校音楽学科准教授。ケンブリッジ、ヨーク大学、ベルリン音楽大学で音楽を学んだ。専門は20世紀ドイツ音楽。その傍ら、オールドバラ音楽祭やBBOの録音で伴奏者を務めたり、『BBCミュージック・マガジン』でCDレビューも担当するなどマルチな活躍をしているという。苗字が示す通り、ユダヤ系と思われるが、色々な場面でナチスの影響が顔を覗かせる20世紀ドイツ音楽を専門分野としているのは、そんなバックグラウンドも影響しているのかもしれない。 #
by bonnjour
| 2013-03-10 10:43
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