B的日常
bonnjour.exblog.jp

ドイツ、デンマーク、フランス(一瞬)と、流浪の生活を約10年。昨年秋にポーランドに流れ着く。音楽、美術、風景、食べ物など、美しいものや変わったものを追いかけて味わうのが好き。
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
ブログパーツ
プロフィール
美しいものや変わったもの、美味しいものを追いかけるのが好きです。日々の生活で接した、そうしたものへの感想を綴っていきます。過去の記事であってもコメントは大歓迎です。メールはこちらにどうぞ。
最新のトラックバック
Wheelock's L..
from えいじゅなすの本棚 − 英語..
ミケランジェリ/ショパン..
from クラシック音楽ぶった斬り
フィリップ・ジャルスキー..
from ご~けんのAudio & C..
NAXOS MUSIC ..
from Ceciliaの部屋
カテゴリ
以前の記事
その他のジャンル
マイルドなブーイングが飛んだロイヤル・オペラ・ハウス「イドメネオ」初日


ロンドン、ロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)で上演されたモーツァルト「イドメネオ」新プロダクションの初日(2014年11月3日)を観た。前衛的な作風で知られるオーストリアの演出家、マルティン・クシェイを迎え(これが英国デビュー)、指揮はこれまたROHデビューとなるマルク・ミンコフスキ、現代ではメゾソプラノが歌うのが通例になっているイダマンテ役にカウンターテナーのフランコ・ファジョーリ(ROHデビュー)を起用したという話題のプロダクションだ。メゾでなくカウンターテナーをキャストした理由は、父と息子の関係をよりリアルに伝えるためという。リヨン歌劇場およびアントワープ歌劇場との共同制作。

非常に意欲的な作品なのだが、結果的にはROHのお客の一部には受けず、初日に演出家へのマイルドな(笑)ブーイングが飛ぶという結果になった。もっともクシェイ本人はそうした事態には慣れっこで、想定内の出来事だったようだが。

あらすじ
トロイア戦争後のクレタ島。クレタ王イドメネオの息子イダマンテは、戦に負け囚われたトロイアの王女イリアに思いを寄せる。イリアも密かにイダマンテを愛しているが、相手は敵国の王子、素直に思いを伝えることはできない。そしてもう一人、イダマンテに恋心を募らせる女性がいた。クレタに逃亡中のアルゴスの王女エレットラだ。

一方、イドメネオは戦を終えクレタに戻る途中、荒海で遭難するが、海神ネプチューンと契約を交わし生還する。その契約とは、陸に上がって最初に出会った人物を生贄にするというもの。そしてイドメネオが最初に遭遇した人間とは実の息子イダマンテだった。

忠臣アルバーチェの提案により、イドメネオは海神との約束を破り、息子とエレットラをアルゴスへ逃がそうとするが、息子とイリアが互いに惹かれ合っていることを知り苦悩する。二人が出航しようとした時、突然海が荒れ怪物が人々を襲う。約束を反故にされた海神が怒ったのだ。

怪物退治を決意したイダマンテはイリアと愛を確かめ合う。大司祭が登場し、イドメネオに早く生贄を捧げるよう促す。イドメネオはついに、その生贄とはイダマンテであることを告白した。自分が犠牲となることを受け入れたイダマンテをイドメネオが殺そうとした時、イリアが乱入して自分を身代わりにしてくれと懇願する。イリアの献身的な愛に打たれた海神は「イドメネオは退位し、イダマンテが王となりイリアを娶る」と神託を下す。民衆は愛を讃え平和を喜ぶが、ただ一人エレットラだけは怒り狂い自分の死を願うのだった。
以上のように、このオペラ・セリアはギリシャ神話を素材に、海神や怪物といった超自然の存在が跋扈するファンタジーだが、レジーテアター(ドイツ語圏の演出主導の舞台芸術)の旗手であるクシェイは、海神も怪物も登場させず、ストーリーを現代に移し替えた。そして専制君主の父親と、父親が戦争で不在の間に平和な国を作ろうとしたリベラルな息子との相剋と権力抗争という図式にした。

もっとも、この切り口は決して新しいものでもなく、啓蒙思想が花開いた18世紀ヨーロッパでは、「イドメネウス」の物語に「支配階級」や「罰する存在としての神」からの解放というテーマを見出したのだと古代史家のマルティン・ツィンマーマンは指摘する。(Martin Zimmermann, "Between Violence and Lies," the Royal Opera House "Idomeneo" programme, 2014, p23)

イドメネオは、いるはずのない海神との約束を口実に、政敵になりそうな息子イダマンテを抹殺しようとする。その企みは破綻し、物語のエンディングでは失脚したイドメネオにかわりイダマンテが王位につく。それまでの善良な王子の顔から打って変わって不敵な顔つきで君臨するイダマンテ。彼の手は血まみれの壁に触れている。ひとたび権力を握ると、その手は血で汚れてしまうのだ。

舞台セットはシンプルで、モノクロームの壁状の構造物が回転する廻り舞台で進行する。戦に破れ捕虜になったトロイア人たちは半裸で、銃を肩にした黒ずくめの男たちに小突き回されている。囚われの身になったトロイア王女イリア(Sophie Bevan)は太ももも露わな白いドレス。清純な乙女にふさわしいリリックなソプラノの役だが、後では恋人の父親であるイドメネオを誘惑するシーンも出てきて、やっぱり一筋縄ではいかない演出。

イリアを見初める王子イダマンテ(Franco Fagioli)の役は、初演時は駆け出しの下手っぴなカストラートが歌っただけに(モーツァルトはそれを愚痴る手紙を書いている)、持ち歌は平易なものだ。それだけに、技巧でなく感情表現やドラマ作りで評価してもらわねばならない。ファジョーリの流れるようなレチタティーヴォはよく感情がこもっていたと思うのだが、翌日のある新聞評に「ディクションが悪くて言葉が聞こえない」と書かれちゃったのは、何故か(英国人にイタリア語のディクションを云々されるのも不本意なことかも?)。

イドメネオのMatthew Polenzaniは絶好調で、豊かな声量でよく響く歌唱だった。私は舞台に近い席にいたので、海神との約束で愛する息子を生贄にしなくてはならない、と嘆いてみせつつ顔はほくそ笑んでいる、といった細かい演技が手に取るように見えて面白かった。

ストーリー上は最後に登場する大司祭(Krystian Adam)は、イカれたヒッピーのような姿で狂言回し的に舞台を駆け巡る。イダマンテに恋し、イリアに激しい嫉妬心を抱くエレットラ(Malin Bystrom)は、「パルプ・フィクション」のユマ・サーマンを思い出させる黒髪のボブカット。終盤の怒りのアリア「D'Oreste, d'Ajace ho in seno i tormenti」は、さながら狂乱の場の迫力があった。が、それより前にイダマンテとのからみで、彼に馬乗りになってズボンのジッパーを下げる(写真参考)狼藉を働いたのは、いささかやり過ぎではないかと思う。

一番の喝采を浴びたのは、忠臣アルバーチェ役のStanislas de Barbeyracかもしれない。壊れた眼鏡をかけたアコーディオン弾きの出で立ちで登場するのだが、明るい美声のテノールで、ROHのお客はこの日、思わぬ掘り出し物を見つけたという気持ちになったのでは。

このオペラには終盤に長いバレエ音楽が入っているが、今回の演出ではダンサーを登場させず、音楽だけを演奏するという方法が取られた。そして、その音楽に合わせて次のような謎めいた言葉が舞台に映写された。
Utopias fade.
Rebellions decay.
The rulers remain.
And the souls of the people grow colder.
Rigid.
In the sign of Pisces.
(ユートピアは色褪せる/反乱は衰える/支配者たちは留まる/人民の魂は凍てつく/こわばって/双魚宮のもとに)
この手法は一部の批評家の反感を買ったようで、「勿体ぶっている」とか「陳腐だ」といった評を目にした。

ちなみに翌日に出た英国の主要紙でのオペラ・レビューの評価は次の通り(紙名から当該記事にリンクを貼った)。評者によって評価に大きなばらつきがある。それだけ、問題作なのだともいえるだろう。

The Times (by Richard Morrison): ★1個(満点は5個)
The Independent (by Michael Church): ★3個(同上)
The Guardian (by Andrew Clements)
: ★3個(同上)
The Telegraph (by John Allison): ★3個(同上)
The Financial Times (by Laura Battle): ★4個(同上)

c0163963_09435427.jpg
カーテンコール。熊さんのような後ろ姿はマエストロ・ミンコフスキ。
スタッフ
Director Martin Kušej
Set designs Annette Murschetz
Costume designs Heide Kastler
Lighting design Reinhard Traub
Dramaturg Olaf A. Schmitt

Conductor Marc Minkowski
Orchestra of the Royal Opera House

キャスト
Idomeneo Matthew Polenzani
Idamante Franco Fagioli
Ilia Sophie Bevan
Elettra Malin Byström
Arbace Stanislas de Barbeyrac
High Priest Krystian Adam
Voice Graeme Broadbent
Chorus Royal Opera Chorus
Concert Master Peter Manning




[PR]
# by bonnjour | 2014-11-06 12:56 | 聴く&観る
ファジョーリのロッシーニにザルツブルクの観客総立ち
ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭では本日(6月6日)、フランコ・ファジョーリがモーツァルテウム大ホールでロッシーニとマイヤーベーアのアリアのリサイタルを開いた。カストラートの歴史の終焉を飾るかのように19世紀に活躍した歌手、ジャンバチスタ・ヴェルーティ(1780-1861)のために書かれた作品を中心にしたプログラムだ。オケはディエゴ・ファソリス指揮のイ・バロッキスティ 。

最初にマエストロ・ファソリスより、プログラムの演奏の順序が変わったことがアナウンスされた。変更後のプログラム構成は下記の通り。最初に演奏された「パルミーラのアウレリアーノ」の序曲は、有名なあの序曲の元ネタなので、誰にとっても馴染み深いメロディで、導入部としては最適だったと思う。

Gioachino Rossini - Ouverture to the opera Aureliano in Palmira

Giacomo Meyerbeer - Cessi, o miei fidi ... O figlio dell'amore
Recitative and Aria of Armando from the opera Il crociato in Egitto

Gioachino Rossini - Ouverture to the opera Il turco in Italia

Giacomo Meyerbeer - O tu divina fè de' padri miei... Il dì rinascerà ... Ah! – che fate! – v'arrestate... Rapito io sento il cor ... Verrai meco di Provenza
Recitative, aria and cabaletta of Armando from the opera Il crociato in Egitto

===Intermission===

Gioachino Rossini - Ouverture to the opera L'italiana in Algeri

Gioachino Rossini - Dolci silvestri orrori… No! non posso… Ah! che sento… Non lasciarmi in tal momento
Scene, aria and cabaletta of Arsace from the opera Aureliano in Palmira

Gioachino Rossini - Variations for Clarinet and Orchestra in C (1809) Andante

Gioachino Rossini - Eccomi alfine in Babilonia ... Ah! quel giorno ognor rammento Recitative and cavatina of Arsace from the opera Semiramide

[Encore]

GIOACHINO ROSSINI - La donna del lago - "Elena! O tu che chiamo” (Malcolm)

Wolfgang Amadeus Mozart - Le nozze di Figaro K 492 - "Non so più, cosa son, cosa faccio" (Cherubino)

揺るぎのない技術と音楽性に支えられた、恐るべき完成度。そして極めて官能的な歌唱。甘美で眩暈のするような時を過ごした。そんな思いは誰にも共通していたようで、カーテンコールでは観客が総立ちになった。
(現時点ではとりあえず写真だけアップ。後ほど加筆します)。
c0163963_1123417.jpg


c0163963_1122392.jpg


c0163963_1123857.jpg


[PR]
# by bonnjour | 2014-06-06 11:08 | 聴く&観る
ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭の「チェネレントラ」
c0163963_18141555.jpg


聖霊降臨祭音楽祭のザルツブルクに昨日から来ている。昨夜は初日で、チェチーリア・バルトリが主役のロッシーニ「チェネレントラ」を見た。彼女が音楽監督を務める音楽祭の、今年のテーマは「Rossinissimo! 」。訳すなら「めっちゃ、ロッシーニ!」とでもいおうか。
c0163963_18145148.jpg


バルトリ演じるアンジェリーナ(チェネレントラ)が働く継父ドン・マニフィコの屋敷は現代のカフェテリアに読み替えられていて(演出:Damiano Michieletto)、ジーンズにエプロン姿で食器の片づけや掃除に追われる。ラミロ王子の舞踏会が開かれるのは「Palace」というネオンサインのかかったディスコ。ポップな色彩で楽しい舞台だった。

バルトリはもちろん存在感も技術も突出しているのだが、王子役のメキシコ出身のテノール、ハビエル・カマレナの張りのある美声にノックアウトされた。高音をヒットしたときなんて、会場のガラスが割れるんじゃないかと思った。ジャン・クリストフ・スピノジ率いるアンサンブル・マテウスの、活き活きした演奏も素晴らしい。
c0163963_18241934.jpg


c0163963_18244338.jpg


Jean-Christophe Spinosi, Conductor
Damiano Michieletto, Director
rocafilm, Video Design
Performers: Cecilia Bartoli, Lynette Tapia, Hilary Summers, Javier Camarena, Enzo Capuano, Nicola Alaimo, Ugo Guagliardo
Concert Association of the Vienna State Opera Chorus
Ensemble Matheus

[PR]
# by bonnjour | 2014-06-05 18:28 | 聴く&観る
ナンシー歌劇場のモーツァルト「皇帝ティートの慈悲」


生まれつきの怠け者ゆえ当ブログを放置プレイのまま、気がついたら1年以上経過していた。一発芸のTwitterのほうが楽なので、そっちに流れていたということもある。最後の投稿がモーツアルト・ネタだったので、またモーツァルトで放置状態からの脱出を試みてみたい。
…と、こじつけは置いておいて。

フランスはロレーヌ地方ナンシーの国立歌劇場で上演されたモーツァルト「皇帝ティートの慈悲」新プロダクションを観た。英国リーズのOpera Northとの共同プロダクションで、リーズでは一足早く昨年上演されている。リーズ版との大きな違いは、セストとアンニオという、通常はメゾ歌手がズボン役として担当するキャラクターを2人のカウンターテナーに歌わせたという、思い切ったキャスティングだろう。なお、作品の初演時にはセストはソプラノ・カストラートが、アンニオは女性歌手が歌ったので、半分はオリジナルに戻ったわけだ。ジョン・フルジェームズの演出は、原作のローマ時代を現代に置き換えたもので、モノトーンのシックなセットや衣裳(コナー・マーフィー)とあいまって、スタイリッシュな舞台になっている。
指揮: Kazem Abdullah
演出: John Fulljames
美術、衣裳: Conor Murphy
照明 : Bruno Poet
ビデオ: Finn Ross

配役:
Titus : Bernard Richter (Ten)
Vitellia : Sabina Cvilak (Sop)
Sextus : Franco Fagioli (CT)
Annius : Yuriy Mynenko (CT)
Servilia : Bernarda Bobro (Sop)
Publius : Miklós Sebestyén (Bar)

Chœur de l’Opéra national de Lorraine
Orchestre symphonique et lyrique de Nancy

通奏低音:
Giulio Zappa, clavecin
Jean De Spengler, violoncelle


あらすじ
時は紀元1世紀のローマ帝国。前皇帝の娘ヴィッテリアは、父から皇位を奪ったティート帝に憎しみと、それに相反する激しい愛情を抱いている。ティートとヘロデ王の娘との結婚話が進んでいることを知ったヴィッテリアは、自分に片思いしているセストをそそのかして、ティート暗殺を企てる。その後、結婚話が白紙になったことを知ったヴィッテリアは暗殺の延期を申し渡すが、次の花嫁候補としてセストの妹セルヴィリアが選ばれたことを知り、再び激怒。

しかしセルヴィリアは兄の友人であるアンニオと愛し合う身。アンニオは皇帝への忠誠心から身を引こうとするが、率直なセルヴィリアは、自分が愛しているのはアンニオであることを皇帝に告げる。慈悲深い皇帝は、二人の仲を引き裂くのはしのびないとして、新たな結婚相手としてヴィッテリアを考える。

そのことを知らないヴィッテリアは、ついにセストを使ってティート帝暗殺を実行に移した。だが、ティートと思って刺した相手は皇位簒奪を狙う別人で、一命を取りとめた。セストは皇帝暗殺の未遂犯として逮捕されるが、理由を問い詰められても、ヴィッテリアへの愛ゆえに真実を話せない。ついにセストは処刑場へ。ここに至ってセストの真実の愛を知ったヴィッテリアは、罪を告白する。

結局ティートは慈悲深い心で二人を許し、民から賞賛の声を浴びるのだった。

さて、フランコ・ファジョーリによるセストと、ユーリ・ミネンコが演じたアンニオだが、この配役は大成功といってよいだろう。カウンターテナーとしての卓越した技術と高い音楽性を備えていることはもちろん、この二人の声はとても相性がいいのだ。彼らが変わらぬ友情を歌い上げる二重唱「Deh prendi un dolce amplesso(ああ、やさしく抱き合おう)」は、3度と6度のハーモニーが身震いするほど甘美だった。メゾ二人がハモるのとはまた違った、力強さを感じさせる歌唱である。それに、視覚的にも男役の「中の人」が本物の男性というのはしっくりくる。余談だが、ワイルドな長髪のカツラをつけたファジョーリは、人気のあのイケメン・テノールにちょっと似てる瞬間があるじゃないかと(ごく局地的に)話題になった。
髪の存在って、すごい。

ナンシー歌劇場といえば昨シーズンにカウンターテナー5人プラステノール1人という男性歌手だけの絢爛豪華バロック歌謡ショウ(と呼びたい)、ヴィンチの「アルタセルセ」で話題になったが、ファジョーリはそこで超絶技巧を披露して観客をあっけにとらせた歌手だ。今回のセスト役では、有名なアリア「Parto, Ma Tu, Ben Mio(私は行く、でも、いとしいあなたよ)」の見事なコロラトゥーラは勿論のこと、皇帝暗殺を悔いる長丁場のレチタティーヴォ・アコンパニャート「O Dei, che smania e questa(おお、神々よ、これは何という狂ったことか)」のドラマチックな表現力と緊迫感に釘付けになった。

一方、ミネンコも「アルタセルセ」に出ていたが、敵役であまり派手なアリアもなかったので、ちょっと影が薄くて気の毒だった。今回は彼の魅力である温かみのある豊かな声が十分に生かされて、本領発揮となったのは嬉しいことだ。

ティート帝、テノールのベルナール・リヒターは、気品ある声で正統派モーツアルト・テノールの風格があった。ヴィッテリア役には、そのエキセントリックな性格を反映した、上と下に恐ろしく音域が広く大胆な跳躍もある難曲のロンド「Non piu di fiori vaghe catene(花の美しいかすがいを編もうと)」がある。これを歌ったサビーナ・クヴィラックには、ただ、ただ、お疲れ様と声をかけたい。アンニオとの愛を貫くセルヴィリア役のベルナルダ・ボブロは、優しくも芯の強い女性というキャラを、その可憐な声でよく表現していた。

なお、初日のオペラ評が4月30日付のフィナンシャル・タイムズに掲載されており、かなり好意的な評価をしている。フランコ・ファジョーリの大ファンとして情報普及活動に尽力しているアルチーナさんのブログで、その日本語訳が読める
c0163963_13511085.jpg
5月6日のカーテンコール
[PR]
# by bonnjour | 2014-05-07 13:56 | 聴く&観る
『モーツァルトとナチス-第三帝国による芸術の歪曲』を読む
c0163963_841369.jpg

モーツァルトとナチス-第三帝国による芸術の歪曲』(エリック・リーヴィー著、高橋宣也・訳、白水社・刊)。神に愛された天才モーツアルトと、極悪非道の象徴のようなナチスの名を並べたタイトルからして、興味を惹かれる。昨年の12月に日本語訳が刊行されたこの大著を読んでみた。

【目次】
第1章 プロローグー1931年モーツァルト・イヤー
第2章 ドイツ人モーツァルト
第3章 モーツァルトとフリーメイソンーナチスに不都合な問題
第4章 モーツァルトをアーリア化する
第5章 モーツァルト・ディアスポラ
第6章 「真に人道主義的な音楽」-亡命者たちのモーツァルト
第7章 モーツァルト上演とプロパガンダーオーストリア併合から大戦終結まで
第8章 ドイツ帝国主義に利用されるモーツァルト
第9章 エピローグーナチスの遺産

内容を一言でいえば、国民の心を操縦するために巧みに芸術を利用したナチスが、あのワーグナーばかりかモーツァルトまで使ってアーリア民族の優越性を宣伝していた、というあまり知られていない事実を考察したもので、オーストリア併合(1938年)以前から第二次世界大戦後に至る時間枠の中で、膨大な資料を使った検証が行われている

モーツァルトはドイツではなくオーストリア人(正確には、大司教領だったザルツブルク出身)で、ナチスが忌み嫌うフリーメイソンの会員であり、あろうことか代表作はユダヤ人台本作家(「フィガロ」「ドン・ジョバンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」のロレンツォ・ダ・ポンテ)とのコラボレーションである。そんな人物をナチスのプロパガンダに使おうというのだから、音楽学者を総動員して牽強付会、事実歪曲、言語道断、笑止千万な(四字熟語は続くよ)情報工作を行い、モーツァルトをアーリア文化の権化にする必要があった。

例えば、憎きユダヤ人ダ・ポンテが台本を書いたイタリア語オペラはドイツ語訳で上演された。もっとも、ドイツの歌劇場ではイタリア語オペラの母国語上演は18世紀以来の伝統だったのだが、都合が悪いことに、最も出来がよく普及しているドイツ語訳はユダヤ系指揮者の手によるものだった。そこで、ドイツ人による「アーリア」的なドイツ語訳を作成するプロジェクトが生まれた。もう、ドタバタ騒動といってよいではないか。

その一方、ナチスに国を追われたユダヤ系音楽家たちにとっても、モーツァルトは人道主義や啓蒙主義の象徴として心の支えだった。彼らはナチスによるモーツァルトの歪んだ政治利用を糾弾する。例えば、ドイツが1938年にオーストリアを併合する前のザルツブルク音楽祭では、ナチスに迫害され国外脱出を強いられたドイツ系ユダヤ人指揮者ブルーノ・ワルターの振るモーツァルトが、反ナチス運動の象徴のようになった。

げに恐ろしきは、人類共通の財産であるべき芸術作品を、厚顔無恥にも政治利用する人々の存在である。それはナチスの専売特許ではない。今も、どこかでその企みは行われているはずなのだ。だからこそ、この本は単に近代史の一エピソードを掘り下げただけでなく、将来に向けての警鐘と捉えることもできるだろう。

そういう意味では、この本で最も読み応えがあるのは第9章のエピローグだ。そこでは第二次世界大戦後に、モーツァルトがドイツ人でなくオーストリア人として捉えられるようになったこと、その背景にはオーストリアが戦後になって、往時のナチズムへの加担という問題と決別する必要があったことが語られる。そして、作者が「不穏な継続性」と表現する、オーストリア併合後のナチスによるモーツァルト利用に加担しながら、戦後もちゃっかりとオーストリアの文化界を牛耳った人物たちの存在。

オーストリアはナチスに協力したのではなく犠牲者だったというポーズを外に向けて取りながら、人道主義の象徴として国のブランド・イメージに利用されるのも、またモーツァルトなのである。そして21世紀に入り、さらにモーツァルトはヨーロッパ統合の象徴としても使われるようになる。困ったときのモーツァルト頼みというか、汎用性抜群の超優良ブランドというか…。

著者のエリック・リーヴィー(Erik Levi)はロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校音楽学科准教授。ケンブリッジ、ヨーク大学、ベルリン音楽大学で音楽を学んだ。専門は20世紀ドイツ音楽。その傍ら、オールドバラ音楽祭やBBOの録音で伴奏者を務めたり、『BBCミュージック・マガジン』でCDレビューも担当するなどマルチな活躍をしているという。苗字が示す通り、ユダヤ系と思われるが、色々な場面でナチスの影響が顔を覗かせる20世紀ドイツ音楽を専門分野としているのは、そんなバックグラウンドも影響しているのかもしれない。
[PR]
# by bonnjour | 2013-03-10 10:43 | 読む
シドニー・モーニング・ヘラルド紙のジャルスキーのインタビュー記事
今年初めから長期休暇を取って充電中のフィリップ・ジャルスキーだが、今月は例外的にオーストラリアのシドニーとメルボルンで、ポール・ダイアー率いるオーストラリアン・ブランデンブルク・オーケストラと共演するコンサートが予定されている。

それに合わせ、現地紙シドニー・モーニング・ヘラルドに本日付でジャルスキーのインタビュー記事が掲載されたので(下の写真はオンライン版のスクリーンショット)、拙訳でご紹介する。よく対比される往年のカストラートと現代のカウンターテナーとの本質的な違い、カウンターテナー・ボイスにまつわるセクシュアリティの問題、カウンターテナーで歌うことの魅力など、大変に興味深い内容だ。そして、人気歌手ジャルスキーにこぞって手編みマフラーをプレゼントする中年女性軍団(笑)のエピソードなど、ちょっと風刺がきいていてニヤリとしてしまう。

c0163963_19252079.jpg

シドニー・モーニング・ヘラルド紙
2013年3月9日

「大の男をすすり泣かせる音域」

Kathy Evans記者


「芸術のために苦しむ」という言葉は、昨今では言い古された表現かもしれない。しかし300年前にタイムスリップすれば、この言葉が実際に何を意味するかを、身の毛もよだつ、生々しい描写を交えて事細かに語ってくれる少年たちが沢山いることだろう。

簡単にいうと、前途有望そうな美声に恵まれた少年たちは、もぐりの理髪店に連れていかれ、そこで阿片を飲まされて、温かい浴槽に浸かりながら去勢された。その成果は(ごく一部の幸運な者たちに限るが)、現代のロック・スターもかくやと思われるキャリアだった。彼らカストラートはヨーロッパの主要なオペラハウスを巡業し、バリー・ギブ(訳注:ビージーズのメンバーで、ファルセットの高音で歌うことで有名な英国の歌手)並の、甲高い奇妙な歌声で高額の出演料を思うままにした。彼らは、まさに当時のディーバといえる存在で、癇癪持ちでしばしば感情を爆発させ、法外な要求をすることで有名だった。そんなカストラートを熱愛する女性ファンは山のような贈り物をして、絶賛の言葉をささやいたのである。

フィリップ・ジャルスキーのキャリアには、カストラートのそれと重なる部分が少なくない。彼は世界中のコンサートホールに送迎付きで登場し、その澄み切った天国的な声と、少年の面影を残す美貌に聴衆はうっとりとし、ファンたち(とりわけ中年女性)はプレゼント攻勢を仕掛ける。中でも多いのはチョコレートと、彼の名声を築いた喉を守るための手編みのマフラーである。「これは、ナルシスト向きの仕事です」と彼は認める。しかし、幸いなことにカストラートとの類似点は、そこまでだ。このフランス人カウンターテナーの声は、すべて天然に生み出されたもので、苦痛はまったく不要だった。

「最高の芸術性を発揮するために、苦しい人生を送る必要はまったくないと思います」。彼は、アクセントの強い、驚くほど低い声でそう言ったが、カストラートになるための恐ろしい去勢がその歌唱に優位性を与え、それは現代では再現できないものだという事実も認める。「彼らは、その歌声に劇的なものをまとっていました。完全な男性にはなれないという悲劇は、その声にも顔をのぞかせていたのです。」

ジャルスキーは、18世紀ヨーロッパでセンセーションを巻き起こした去勢歌手たちに長いこと魅せられてきた。数年前には、ヨハン・クリスチャン・バッハがカストラートのために書いた、今では忘れられたアリアの数々を収めたアルバム「La Dolce Fiamma(甘い炎)」を録音している。そして来月、彼はオーストラリアン・ブランデンブルク・オーケストラと共演し、かつてファリネッリとカレスティーニというカストラート界の二大ライバルが歌って大ヒットしたバロック・オペラの名曲を披露する。

当時の様子を思い浮かべてみよう。人々が、髪粉をたっぷり振りかけたかつらをつけていた時代のロンドン。有名な作曲家ヘンデルと、それよりは知名度が少々劣るライバルのポルポラは、オペラ界でのトップの座を狙って激しい争いを繰り広げていた。ヘンデルの陣営には有名なカストラートのカレスティーニ、そしてポルポラには同じくらい崇拝されている歌手ファリネッリがついていた。二人の作曲家はそれぞれ、自分の陣営の歌手の驚異的な才能を誇示するために曲を書き、アリアがいっそう崇高で華々しく、名人芸的なものになるよう心を砕いた。

カストラートは、成層圏にまで突き抜けると思われるような声のほかにも、ひとたび舞台を下りれば女性そして男性を相手にした恋愛遊戯で知られていた。皮肉なことに、男性機能を奪った処置はまた、彼らを超人間的な存在にする結果となったのである。必要なホルモンが奪われたため、カストラートの手足は異常な長さに成長し、胸腔は巨大化したのに対し、喉頭は子供のままだった。その結果生まれる声は、力強さと純真さを不気味に混ぜ合わせたものとなった。それは、恐ろしい残酷行為から作り出された至高の歌声といえよう。

カウンターテナー界の広告塔たるジャルスキーには、彼のためにせっせと手編みに励む女性軍団のほかに、ゲイのファンも数多い。「沢山のゲイの人たちが、カウンターテナーの声に興味を示します。なぜなら彼らにとって、この声は男性であることのもう一つの方法を、戯画化することなしに示すものだから。けれど、それは何もカウンターテナーの声に特有のものではないと思うのです。カウンターテナーであることとゲイであることを混同されることもありますが、実際にはもっと複雑なものなんです。カウンターテナーにはゲイもいれば、異性愛者もいます。自分のセクシュアリティを表明するためにこの声を選ぶ必要はありません。カウンターテナー・ボイスが自分にとって心地よく、その声を使って素晴らしい音楽を作り出せるのなら、カウンターテナーを選べばいいわけです。」

パリ郊外で育ったジャルスキーは、最初ヴァイオリンを学んだが、この楽器を心底楽しんでいたわけではなかった。ティーンエイジャーの時、地元の教会で開かれたバロック・コンサートでマルティニーク島出身のカウンターテナー、ファブリス・ディ・ファルコの歌を聴く。彼はその音色に衝撃を受け、魅了された。最初はためらいもあったが、彼の中でこんな声がささやいた「君だって、できるさ」。

最初についた音楽教師には確信がなかった。「彼女は『あなたには音楽の才能があるけど、いかんせん声が小さすぎるのよ』と言いました。でも僕はこう言ったんです。僕を信じてください、絶対にカウンターテナーになってみせます、と」。

それでは、カウンターテナーのどこに惹かれたのだろう。「それは少年のままでいられるからだと思います。僕は今、35歳ですが、いまだにティーンエイジャーのような気持ちがします。カウンターテナーは女性のように歌おうとしているのだと多くの人が思っていますが、僕にとっては、子供時代の、何か純粋なものを自分の声の中に見出そうとしているんですね。」

1922年に世を去った最後のカストラート、アレッサンドロ・モレスキは、カストラートの声の唯一の録音を残しているが、現代のある批評家はそれを「ヘリウムを吸ったパバロッティ」と形容している。しかし私たちがカストラートに魅了される気持ちは尽きない。両性具有性や性的曖昧さは、その魅力のほんの一部分だ。貧困が生んだ悲劇と、そこから逃れるために自らの子供に去勢手術を受けさせる親たちの絶望には、計り知れないものがある。その残酷さこそが、ジャルスキーを引き付けて離さないものである。「カウンターテナーで歌うことは、カストラートの音色を理解するための一つの方法ですが、僕たちは決して、カストラートを忠実に再現することはできないんです。」
*** END ***
[PR]
# by bonnjour | 2013-03-09 19:35 | 聴く&観る
ウィーン旅日記 - ファジョーリのAlto Gioveで失神の三歩手前
ウィーンに来た目的である、ニコラ・ポルポラ作のオペラ「ポリフェーモ」(演奏会形式)を、金曜日の晩にアン・デア・ウィーン劇場で聴いた。ここは、モーツアルトの「魔笛」の台本作者で俳優、興行師でもあったエマヌエル・シカネーダーが設立した歴史ある劇場。近年では専らミュージカルを上演する劇場だったが、2006年に「新しいオペラハウス」というキャッチフレーズで再びオペラ劇場に生まれ変わった。

さて、劇場に近づくと今日の演目のポスターが見える。
c0163963_10323320.jpg


「Franco Fagioli in
POLIFEMO」
とある。すごいな。彼が看板役者(じゃなくて歌手か)として興行を背負って立ってる感じが伝わってくる。
c0163963_1032535.jpg



【作品について】
イタリア後期バロックの作曲家ニコラ・ポルポラ(1686-1768)がパオロ・アントニオ・ロッリの台本に基づいて作曲し、1735年に初演されたパストラル・オペラ。ストーリーは、「オデュッセイア」と、オウィディウスの「メタモルポーセース(変身物語)」にあるアチス(アチ)とガラテアの話を組み合わせている。タイトルの「ポリフェーモ」は、美青年アチと相愛の仲にあるガラテアに横恋慕する単眼の巨人。初演時には、当時の超人気カストラートであるファリネッリがアチ役、同じくセネジーノがウリッセ(ユリシーズ)役を歌った。

Cast:
Aci - Franco Fagioli (CT)
Galatea - Laura Aikin (S)
Ulisse - Xavier Sabata (CT)
Polifemo - Christian Senn (BT)
Calipso - Mary-Ellen Nesi (MS)
Nerea - Hannah Herfurtner (S)

Bach Consort Wien
Conductor: Ruben Dubrovsky

さて、この晩の歌唱だが、アチ役のフランコ・ファジョーリが飛び抜けて光っていた。「神は一人、ファリネッリも一人」と称えられたカリスマ・カストラートのために書かれた役だから、聴かせどころのアリアが割り当てられていて歌い甲斐のある役ではあるのだが、それを差し引いても、彼の声質、発声法、表現力は他の歌手たち(彼らも、それぞれに美点のある音楽家なのだが)を大きく引き離している。

例えば1幕目のアチのアリア「Dolci fresche aurette」での、クリームのようにまろやかで密度の濃い声。ファジョーリはインタビューで自分の声をメゾ・ソプラノだと説明しているが、メゾの声質の中に男性的なトーンが一本通っていて、それがこの作品のような青年役にはうってつけである。(ちょうど1年前、ファジョーリがカールスルーエで歌った同じアリアの音源を、下に貼り付けておく。)



2幕目のアリア「Lusingato dalla speme」では、バロック・オーボエとファジョーリの声がからむのが、まるで上質な織物に触れているようで、至福の瞬間だった。そこで気がついたのだが、オーボエの音色と彼の声は、どこか共通点があるのじゃなかろうか。

そしてこのオペラで一番有名なアリアであろう「Alto Giove」。フィリップ・ジャルスキーがこのアリアを得意にしていて、彼のsignature songともいえるのだが、ファジョーリは、この曲に新しい基準を与えたと思った。この二人の歌手は、まったく違った声質の持ち主ゆえ、透明度の高いジャルスキーの歌唱では天に向かって登るようなイメージ、ファジョーリ版はもう少し濃密で重力が感じられて、大気圏を漂っているイメージといえばよいか(なんのこっちゃか?)。このアリアではダ・カーポの装飾音が大変に興味深かった。装飾音によって上の音域を延ばすばかりでなく、下の音域に降りていき、ファジョーリの特質である力強く厚みのある胸声を聴かせてくれるのだ。驚くのは、彼の胸声と頭声の切り替えがごく自然で、音色にまったく差がないことだ。彼の発声法については、英国のオペラ雑誌「Opera Now」に載った、彼のインタビュー記事が参考になる。記事の和訳はこちら

ダ・カーポ部分の「Alto Giove」という、長い長いパッセージを聴いて、私は失神の3歩くらい手前までいったことを告白しておきたい。

さて、他の歌手についての感想。

ウリッセ役を熱演したシャビエル・サバタは、安定感のある歌唱で安心して聴いていられる。最近、コンセプト・アルバムの「Bad Guys」を出して好評を博している彼だから、次は悪役で聴いてみたいかな。

ポリフェーモを歌ったバリトンのクリスチャン・センは、一手に低音部を担う重要な役割。歌唱に加えて、酔っ払うくだりの演技はユーモラスで観客が沸いた。

女性歌手陣では、ネレア役のハンナ・ハーフルトナーが、出番は少ないものの、クリスタルのように透明な声で光っていた。それに対して、肝心のガラテア役のローラ・エイキンは、私には声に魅力が感じられず少々興醒めだった。ガラテアとアチとの二重唱は、二人の歌手の資質の差を見せつけられるようで、彼女に気の毒な気がしたほどだ。カリプソのマリー・エレン・ネジは、とても実力のある歌手。低音歌手が好きな私には目が離せない。

c0163963_10331341.jpg

↑ カーテンコール。左からマリー・エレン・ネジ、シャビエ・サバタ、クリスチャン・セン、指揮のルベン・ドゥブロフスキー、フランコ・ファジョーリ、ローラ・エイキン、ハンナ・ハーフルトナー。

サイン会はなかったが、現地在住が長く、音楽関係者に知り合いの多いTさんが同行していたので、彼女が親切にも楽屋口まで連れていってくれた。そこで待つことしばし、オケのメンバーの後から歌手陣が次々と出てきた。ファジョーリ氏は一番最後。出てくるやいなや、沢山のファンに囲まれているのは、さすが人気者である。ナンシー歌劇場で「アルタセルセ」に出演したあなたを聴いて大変に感動したが、今晩の歌唱もそれに負けず劣らず素晴らしかった、と言ったら、作品そのものがとても優れているんだ、との答え。なんと謙虚な。それに、舞台の上で盛大なブラボーを受けているときも、オケにも拍手を送ってほしいという身振りをして、そうしたステージマナーがまた観客を魅了するのである。歌っているときは神がかっていたファジョーリだが、オフステージではフレンドリーで感じのいい、どこにでもいそうな青年というギャップが、またよかった。
c0163963_10333222.jpg

↑ 彼の出演したロッシーニのオペラDVD「パルミーラのアウレリアーノ」を持参してサインしてもらっちゃった。
[PR]
# by bonnjour | 2013-02-22 10:32 | 聴く&観る
ウィーン旅日記 - ボッシュの地獄絵、「赤いウィーン」の巨大集合住宅、ワイン居酒屋
c0163963_9392336.jpg

ウィーン旧市街の中心部、シュテファン寺院に近い、家族経営のレトロなペンションでぐっすり眠った。この宿は、約20年前にも泊まったが、当時と内装がほとんど変わっていないようだ。インテリアも設備もレトロだが、リネン類はぴしっとアイロンがかかって清潔で、ベッドのマットレスが日本人好みに程よく硬いので(イタリアあたりの柔らかいマットレスは腰が痛くなるのでダメだ)快適に滞在できる。部屋に冷蔵庫がないのが難だが、二重窓の隙間の空間がちょうどよい具合に天然の冷蔵庫として機能するのを発見し、スーパーで買ったワインを置いてみたら美味しく飲めた。無線LANが使い放題で無料というのも嬉しい。国立歌劇場からは歩行者天国のケルントナー通りを通って徒歩で帰れるので、低予算でオペラの旅をするならもってこいの宿だ。

さてウィーン2日目。午前中は造形美術アカデミーの付属絵画館でヒエロニムス・ボッシュの「最後の審判」(下の写真)を鑑賞。このアカデミーは、画家志望だった青年ヒットラーが入学試験に2度落ちて、後に独裁者になると逆恨みからアカデミー関係者を弾圧したという因縁の場所。絵画館の所蔵品はボッシュの他にクラナッハ父、17世紀フランドル絵画(ルーベンス、ファン・ダイク、レンブラント)、イタリアとオーストリアのバロック絵画など。ボッシュのファンタジーにあふれる怪物の図像を見ているうちに、どんどん時間が過ぎていくのであった。

c0163963_1011217.jpg

ボッシュの後は、ウィーンに長く住んでおられる日本人女性のTさんと、バルカン半島(セルビア)料理のレストランでランチ。拙ブログにコメントをくださったことで知り合ったTさんは音楽、とりわけ古楽ファンで、現地の音楽関係者のお知り合いも多いので、とても興味深い話をお聞きすることができた。金曜日のアン・デア・ウィーン劇場「ポリフェーモ」にもいらっしゃるので、楽しみだ。

ランチの後、地下鉄でハイリゲンシュタットに出る。かつてベートーベンが住み、難聴に絶望して遺書を書いたことで有名になった場所だが、私の目的はベートーベンゆかりの地めぐりではなく、1927年に竣工した巨大な集合住宅、カール・マルクス・ホーフだ。

c0163963_10342454.jpg

カール・マルクスの名前が付けられている通り、この建物は第一次世界大戦後、ハプスブルク家の支配に代わって社会主義政権が市政を担った「赤いウィーン」時代の代表的な市営住宅だ。設計は、オットー・ヴァグナーの弟子のカール・エーン。時代背景としては、旧ハプスブルク帝国領からウィーンに移住した労働者たちのために、低料金で健康的な住宅を大量に供給する必要があり、市内各地に多数の市営住宅が建設された。

地下鉄4番線終点のハイリゲンシュタット駅を降りると、目の前に城壁のような建物がでーんと現れる。それがカール・マルクス・ホーフだ。細長い敷地に高層住宅が連続的に建てられており、全長は1km、世帯数は1,382にもなる。まだ現役の住宅なので内部の見学はできないが、外観を見るだけでも大変な迫力だ。住居だけでなく、幼稚園や図書館、歯科診察室などサービス施設も併設して、小さな都市のような機能を備えていたという。しかし、社会主義の理想を求めた「赤いウィーン」は、1938年のナチス・ドイツによるオーストリア併合で終焉を迎えたのだった。

c0163963_1194731.jpg

デザインは表現主義。住宅としては味気ない感じもするが、造形的にはとても美しい。写真を撮りながら、見とれてしまった。
c0163963_1111314.jpg


c0163963_111127100.jpg

c0163963_11115468.jpg


巨大団地の見学の後は、ワイン産地であるグリンツィング地区まで散歩(30分くらい歩いたか)。途中で見つけた自家醸造のワインを飲ませる居酒屋で、250ミリリットル、2ユーロ60という超リーズナブル価格の新酒白ワインを味わったのであった。
c0163963_11142199.jpg


c0163963_11143689.jpg


c0163963_1114513.jpg


[PR]
# by bonnjour | 2013-02-21 09:36 | 旅する
ウィーン旅日記 - 初日は「男の裸」展を見に行く
どうやら約10年おきにウィーンに行きたくなるようで、今年がその周期。というか、アン・デア・ウィーン劇場でニコラ・ポルポラ作「ポリフェーモ」の演奏会形式上演があり、そこにフランコ・ファジョーリとシャビエ・サバタという、今とても勢いのあるカウンターテナーたちが出るというので、それに引っ張られて旅行を決めた。行くことを決めてしまえば、コンサート以外にも見たいもの、行きたい場所が沢山あって目移りしてしまうのが、かつての大帝国の首都ウィーンの偉大なところだ。

水曜日の昼すぎに現地に到着して金曜の夜にコンサート、そして土曜日の午後に現地を発つ3泊4日の旅。到着して早々に、まずはこちらの話題の展覧会に駆けつけた。

c0163963_847100.jpg

レオポルド美術館で昨年10月からロングラン中の「裸の男たち 1800年から現在まで」展。美術の歴史の中では女性の裸体像の影に隠れていまひとつ光が当たることが少ない男性の裸体をテーマにした、意欲的な企画だ。街中に貼られたポスター(下の写真)の無修正の股間に市民からクレームが入って、その部分を隠すことにした(でも剥がされちゃうのだからあまり意味がない)というエピソードや、ヌーディスト向けに全裸で作品を鑑賞できる特別企画(閉館後の一般入場者がいない時間帯である)を設けたりというニュースが先走って、キワモノ的に思われるかもしれないが、「なぜ男性ヌードはマイナーな存在として扱われてきたのか」という問題意識に取り組んだ、大変に真面目な展覧会である。この企画のヒットのおかげで来場者が前年比で大幅アップしているそうで、喜ばしい限りだ。

c0163963_8254613.jpg
↑ 市民からクレームが入ったという展覧会ポスター。クレームに対応して急遽、股間を隠したのに、誰かのイタズラで元の木阿弥に。この肉体美を披露する3人のサッカー選手のヌードはフランスの写真家2人組、「ピエールとジル」の作品だ。ゲイ・テイストの濃い、人工的に作りこんだ彼らの作品は以前から好きなので、無修正のやつを展覧会でじっくりと鑑賞させてもらった。

他に面白かったのは、女性の美術家による男性ヌードを集めたコーナー。男の裸を見る視点が違うのだ。とはいえ、ここに登場する女性美術家は20世紀以降の人々で、それ以前の時代には女性は美術学校に入学が許されなかったという(理由は男性ヌードのデッサンがカリキュラムに入っているから)。そんな男性中心の世界では、女性ヌードを美の理想として盛んに画題に取り上げ、男の裸は脇に追いやられたのも、無理はないだろう。

折しも日本では、島根県で地元出身の篤志家が町に寄付したミケランジェロのダビデ像レプリカが、局部丸出しなので市民を当惑させている、パンツを履かせろという声まで上がっている、というニュースが流れていた。ヨーロッパで公共のスペースに股間丸出しの写真はまずくても、ダビデ像のような彫刻のリアルな股間というのは芸術として受け入れられている。男性裸体に対する、文化圏による反応の違いというのはまことに面白い。

余談ながら、日本の美術界における男性の裸体と股間表現の歴史と葛藤については、木下 直之・著、「股間若衆: 男の裸は芸術か」という痛快な本(下の写真)がある。

c0163963_922213.jpg
[PR]
# by bonnjour | 2013-02-20 07:47 | 旅する
パリ郊外にやってきた
連れ合いが4月半ばまでパリ郊外に滞在しているので、合流するため日曜日にパリに着いた。滞在先は、Institut des Hautes Études Scientifiques(IHÉS)という数学と理論物理学の研究所で、所在地はパリ郊外といってもエソンヌ県という別の自治体に属する。パリ中心部から郊外列車に乗って40分ほどの田園地帯で、印象としては都内から下り電車に乗り、秩父あたりの小さな村に迷い込んだみたい。滞在者は研究所に付属する宿舎に入居できるので、宿探しや生活用品持ち込みの面倒がないのは有難い。1年ほど前にも滞在したことがあるので、勝手が分かっているといえばそうだが、今回はちょっとした違いが…。

↓ 1年前に滞在した部屋。山小屋風というかイケア風な素朴なインテリア。
c0163963_1225525.jpg

↓ 今回あてがわれた部屋。上記と同じ建物にあって床面積は同じだが、中国家具と螺鈿細工の壁絵が存在感を主張するオリエンタル趣味の部屋。香港あたりのホテルにいるような気持ちになってくる。
c0163963_1235134.jpg

なぜか、私たちが入居した部屋だけ最近改装を行い、高価な中国家具を入れたのだという。それで、連れ合いが到着したときには施設管理担当者が立ち会って、家具のチェックを行った。出て行くときに傷がついていたら弁償しなくてはならないということで、たかが机ひとつ使うにも、おっかなびっくりである。

↓ 居室は豪華仕様の改装を施されたものの、ダイニングは取り残されたように素朴なままだ。そして前回滞在した部屋には4つ口のコンロと大型オーブンが備え付けられた立派な台所があったのに、この部屋ときたら、2つ口コンロの簡易キッチンでオーブンがない。美味しい食材の宝庫フランスに来て、この装備は…ちょっと悲しい。いや、立派なホテル風の部屋をあてがわれたのだから、感謝しなくちゃいけないが。
c0163963_14085.jpg


↓ 最寄り駅の駅前にある教会。右側の石碑は、二度の世界大戦で戦死した地元出身者を顕彰するモニュメント。
c0163963_146429.jpg



↓ ご近所は、こんな風景。ヤドリギの生えた木を見ると、北国に来た感じがする。
c0163963_1513024.jpg

[PR]
# by bonnjour | 2013-02-05 00:54 | 暮らす