B的日常
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ドイツ、デンマーク、フランス(一瞬)と、流浪の生活を約10年。昨年秋にポーランドに流れ着く。音楽、美術、風景、食べ物など、美しいものや変わったものを追いかけて味わうのが好き。
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美しいものや変わったもの、美味しいものを追いかけるのが好きです。日々の生活で接した、そうしたものへの感想を綴っていきます。過去の記事であってもコメントは大歓迎です。メールはこちらにどうぞ。
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『モーツァルトとナチス-第三帝国による芸術の歪曲』を読む
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モーツァルトとナチス-第三帝国による芸術の歪曲』(エリック・リーヴィー著、高橋宣也・訳、白水社・刊)。神に愛された天才モーツアルトと、極悪非道の象徴のようなナチスの名を並べたタイトルからして、興味を惹かれる。昨年の12月に日本語訳が刊行されたこの大著を読んでみた。

【目次】
第1章 プロローグー1931年モーツァルト・イヤー
第2章 ドイツ人モーツァルト
第3章 モーツァルトとフリーメイソンーナチスに不都合な問題
第4章 モーツァルトをアーリア化する
第5章 モーツァルト・ディアスポラ
第6章 「真に人道主義的な音楽」-亡命者たちのモーツァルト
第7章 モーツァルト上演とプロパガンダーオーストリア併合から大戦終結まで
第8章 ドイツ帝国主義に利用されるモーツァルト
第9章 エピローグーナチスの遺産

内容を一言でいえば、国民の心を操縦するために巧みに芸術を利用したナチスが、あのワーグナーばかりかモーツァルトまで使ってアーリア民族の優越性を宣伝していた、というあまり知られていない事実を考察したもので、オーストリア併合(1938年)以前から第二次世界大戦後に至る時間枠の中で、膨大な資料を使った検証が行われている

モーツァルトはドイツではなくオーストリア人(正確には、大司教領だったザルツブルク出身)で、ナチスが忌み嫌うフリーメイソンの会員であり、あろうことか代表作はユダヤ人台本作家(「フィガロ」「ドン・ジョバンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」のロレンツォ・ダ・ポンテ)とのコラボレーションである。そんな人物をナチスのプロパガンダに使おうというのだから、音楽学者を総動員して牽強付会、事実歪曲、言語道断、笑止千万な(四字熟語は続くよ)情報工作を行い、モーツァルトをアーリア文化の権化にする必要があった。

例えば、憎きユダヤ人ダ・ポンテが台本を書いたイタリア語オペラはドイツ語訳で上演された。もっとも、ドイツの歌劇場ではイタリア語オペラの母国語上演は18世紀以来の伝統だったのだが、都合が悪いことに、最も出来がよく普及しているドイツ語訳はユダヤ系指揮者の手によるものだった。そこで、ドイツ人による「アーリア」的なドイツ語訳を作成するプロジェクトが生まれた。もう、ドタバタ騒動といってよいではないか。

その一方、ナチスに国を追われたユダヤ系音楽家たちにとっても、モーツァルトは人道主義や啓蒙主義の象徴として心の支えだった。彼らはナチスによるモーツァルトの歪んだ政治利用を糾弾する。例えば、ドイツが1938年にオーストリアを併合する前のザルツブルク音楽祭では、ナチスに迫害され国外脱出を強いられたドイツ系ユダヤ人指揮者ブルーノ・ワルターの振るモーツァルトが、反ナチス運動の象徴のようになった。

げに恐ろしきは、人類共通の財産であるべき芸術作品を、厚顔無恥にも政治利用する人々の存在である。それはナチスの専売特許ではない。今も、どこかでその企みは行われているはずなのだ。だからこそ、この本は単に近代史の一エピソードを掘り下げただけでなく、将来に向けての警鐘と捉えることもできるだろう。

そういう意味では、この本で最も読み応えがあるのは第9章のエピローグだ。そこでは第二次世界大戦後に、モーツァルトがドイツ人でなくオーストリア人として捉えられるようになったこと、その背景にはオーストリアが戦後になって、往時のナチズムへの加担という問題と決別する必要があったことが語られる。そして、作者が「不穏な継続性」と表現する、オーストリア併合後のナチスによるモーツァルト利用に加担しながら、戦後もちゃっかりとオーストリアの文化界を牛耳った人物たちの存在。

オーストリアはナチスに協力したのではなく犠牲者だったというポーズを外に向けて取りながら、人道主義の象徴として国のブランド・イメージに利用されるのも、またモーツァルトなのである。そして21世紀に入り、さらにモーツァルトはヨーロッパ統合の象徴としても使われるようになる。困ったときのモーツァルト頼みというか、汎用性抜群の超優良ブランドというか…。

著者のエリック・リーヴィー(Erik Levi)はロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校音楽学科准教授。ケンブリッジ、ヨーク大学、ベルリン音楽大学で音楽を学んだ。専門は20世紀ドイツ音楽。その傍ら、オールドバラ音楽祭やBBOの録音で伴奏者を務めたり、『BBCミュージック・マガジン』でCDレビューも担当するなどマルチな活躍をしているという。苗字が示す通り、ユダヤ系と思われるが、色々な場面でナチスの影響が顔を覗かせる20世紀ドイツ音楽を専門分野としているのは、そんなバックグラウンドも影響しているのかもしれない。
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by bonnjour | 2013-03-10 10:43 | 読む
サイバー空間のWunderkammer(驚異の部屋)
才気煥発なブログでいつも皆を楽しませてくれているgalahadさんが先日、ドイツの新聞Der Tagesspiegel に載った興味深い記事をリツィートしてくれた。Deutsche Digitale Bibliothek(DDB)のベータ版がオンライン公開(2012/11/28)されたというニュースだ。DDBは、ドイツ国内の様々な図書館、博物館、文書館、フィルムライブラリーなどのデジタル化資料(本日現在で1,886の機関から集められた約560万点)を一元的に提供するポータルサイトで、それらを欧州の電子図書館ポータル「Europeana」(収録資料数:2,000万点)へ提供するアグリゲーターの機能も担っている。

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↑ Deutsche Digitale Bibliothekのトップページ。



↑ Deutsche Digitale Bibliothekが作成した紹介ビデオ。英語版が作られていることからも分かるように、ドイツのデジタル化資料一切を取りまとめるポータル・サイトとして、外国からの多数のアクセスも想定しているようだ。

Tagesspiegelの記事では、このポータルを21世紀のWunderkammer(驚異の部屋)と表現して、その取り組みを紹介するとともに、現在の課題についても述べている。課題というのは、著者の死後70年以上経ち(著作権保護期間を死後70年とするのが欧州の趨勢)パブリックドメインになった資料以外は、デジタル化して収録・公開できないことで、20世紀の著作物の多くは、現時点では対象からもれてしまう。また一方では、ビジネスの世界でGoogle Booksが700万冊以上の現代の出版物をデジタル化している現状があり、電子図書館という公的サービスと商用サービスの間の利益の衝突という問題がある。

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Das Museum des Ferrante Imperato, 1599

さて、ここで電子図書館に擬せられている驚異の部屋とは、諸国から取り寄せた珍品を集めた博物陳列室で、15~18世紀にヨーロッパで流行した。ドイツ語のWunderkammerのほか、フランス語のCabinet de curiosités(珍品陳列室)という名でも知られる。つまり、現在の博物館の祖先みたいな存在で、そのはるか先の子孫が電子図書館というわけだ。王侯貴族にだけ許されていた「驚異の部屋」が、今では庶民の私でも、パソコンとネット環境さえあれば自分のものになるという飛躍的な「情報」と「知」の大衆化。いや、それだけに、気の遠くなるような大量の情報をかみ砕き、交通整理する指南役が必要になるわけだけど。

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図書館のデジタル・アーカイブ化は世界的な潮流だ。欧州では、上述のEuropeanaに各国の100以上の図書館や博物館が参加している。また米国では米国議会図書館が所蔵資料(総計1億4,000万点)のうち、米国の「歴史資料」をデジタル化・ウェブ公開したほか、文書、写真、動画等、1,500万点をデジタル化済みである。

そして日本の国立国会図書館でもプロジェクトが進んでいる。国会図書館が1968年までに受け入れた戦前・戦後の刊行図書、議会資料、法令資料、児童書のうち、約89万点がデジタル・アーカイブ化されており、著作権処理済みの約32万点はインターネットで閲覧できる。また、雑誌のデジタル化も行っており、現在、所蔵する雑誌のうち約102万点(約1.1万タイトル)が収録されている。

というわけで、国立国会図書館の当該サイトには、下記のようにデジタル化資料のアクセス数ランキングが載っている(2012/12/22 23:00閲覧)。

1位 古事記. 上
2位 エロエロ草紙
3位 最近朝鮮事情

お堅い国立図書館のサイトに2位の「エロエロ草紙」(酒井潔著、竹酔書房刊、1930年11月発行)というタイトルが異彩を放っているので、早速見にいった。1930年(昭和5年)といえば、「エログロ・ナンセンス」のアングラ文化が花盛りだった時代。著者の酒井潔(1895 - 1952)は、魔術・秘薬・性愛に関する文献の収集家にして個人誌「談奇」の発行人。エロエロ草紙という刺激的なタイトルの割には、アート的なヌード(絵、写真)や海外の艶笑譚の翻訳、恋人との週末旅行の作法指南など、インテリで上品な内容ではないか。内容そのものに(*´Д‘)ハァハァするというよりは、太平洋戦争前の、日本が平和でのどかだった時代の性風俗を垣間見るという、文化史的な面白さを感じるコンテンツである。

これも、一種の日本版Wunderkammerかも、ね。
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by bonnjour | 2012-12-23 00:38 | 読む
ケルンで殉教した一万一千人の乙女たちとアポリネールの猥本
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St.Ursula Shrine by Hans Memling (ca. 1430 – 1494)

美術館や教会で宗教画を見ていると、上の絵のような、たくさんの乙女を従えた高貴な若い女の図像に出くわすことがある。手にはアトリビュート(その人物を示す持物)である矢を持っている。これは聖ウルスラといい、矢で射られて殉教した初期キリスト教時代の聖女である。もっとも現在では実在が疑わしい聖人として、カトリック教会の典礼暦からは外されている。

黄金伝説(Legenda aurea)」によると、ウルスラは現在のイングランドの一地方を支配していた王の娘として生まれた。キリスト教を信仰していたが、異教徒の王子から求婚される。彼女は三つの条件を出して結婚を承諾した。それは、新郎がキリスト教に改宗すること、ウルスラのために十人の同伴者と一万一千人の乙女を集めること、そして結婚の前にウルスラが乙女たちを引き連れてローマへ巡礼に出ることだった。

こうしてウルスラ一行はローマ巡礼を実現したが、その帰り道、当時フン族に包囲されていたケルン(現在はドイツ)で虐殺に逢い、お伴の一万一千の乙女たちともども殉教した。ヴェネチアのアカデミア美術館に所蔵されているヴィットーレ・カルパッチョ(ca. 1455年 - ca. 1525)による聖ウルスラ伝の連作には、殉教とウルスラの葬儀の様子が描かれている(下の絵)。

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Martyrdom of the Pilgrims and the Funeral of St Ursula by Vittore Carpaccio (c. 1465 – 1525/1526)

地元で殉教した聖人ということで、ウルスラはケルンの守護聖人の一人となっている。ケルン旧市街にある聖ウルスラ教会は、彼女の遺骸が発見された場所の上に建てられたものだ。教会内の木像でも、彼女はやはり矢を持ち、マントの下に乙女たちを従えている(いや、これがなくちゃ、誰が誰だか分からないからね)。

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中世ドイツの女子修道院長で神秘家、作曲家でもあったビンゲンのヒルデガルト(1098 – 1179)は、聖ウルスラとお伴の乙女たちに捧げる讃歌を多数書いている。それは余計な装飾がない分、かえってミニマル・ミュージックのような現代性を感じさせる。「処女」と「殉教」という、女子修道院にはもってこいのキーワードが、ヒルデガルトの作曲家魂を刺激したのだろうか。聖ウルスラは、その生涯のエピソードから、女学校教師や女学生の守護聖人とされている。

”O Ecclesia" (sequence for Saint Ursula & Her Companions) by Hildegard von Bingen


さて話は変わり、清く正しい聖ウルスラと乙女たちとは対照的に、心の中にエッチな妄想が渦巻いていた高校時代、父親の本棚に見つけて、そっとくすねた文庫本がある。ギョーム・アポリネール(1880 - 1918)作、須賀慣訳の「一万一千本の鞭」(1907)という小説だ。開高健の推薦の言葉が帯に印刷されており、「大人のための性のメルヘン! これは大人の童話である。下品で残酷、豊満で優雅、奔放で澄明な、性の童話である」云々とある。「ミラボー橋」の詩人は、猥本も書いていた! つまり、私は親父が持ってたポルノ小説を秘かに持ち出して、自分の書棚に背を奥にして隠し持っていたのである。この本は、ずっと後になって独り住まいの都内のアパートを引き払うとき、ミカン箱に詰めて船便で送った他の大量の書籍とともに、夫の実家の地下室に仮置き(というか塩漬け?涙)させてもらっている。

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あらすじ: 西洋と東洋が渾然一体となったルーマニアのブカレスト。世襲制の太守の家に生まれた美貌のプリンス・ヴィベスクは、女性がみな美人で尻軽だと伝え聞くパリに憧れ、かの地にやってくる。彼は、キュキュリーヌ(Culculine: culとは「お尻」のことなので、「尻子ちゃん」みたいな感じ?)とアレクシーヌという、二人の淫蕩なパリジェンヌと知り合い、さっそくお手合わせする(3Pね)。亡くなった親友が残した遺産を受け取るため、悪党のコルナブーを下男に伴いブカレストに旅立つプリンス。小説の舞台はパリからブカレスト、サンクトペテルブルク、旅順へと移り変わっていくが、外の世界ではセルビア王と妃がベオグラードで暗殺されたり、日露戦争が勃発したりという、激動の時代だった。そんな世情をよそに、主人公と下男は各地で様々な国籍の女たち(その中には日本娘もいる)と、サドマゾ、吸血、スカトロ、乱交、男色その他なんでもあれのハチャメチャな性のアドベンチャーを試みつつ、いきあたりばったりに強姦と殺人を繰り返していく。しかし年貢の納め時が来た。旅順で日本軍の捕虜になったプリンスは死刑判決を受け、一万一千人の日本兵が振るう鞭で打たれて死んでいくのだった。

こうまとめてしまうと、おどろおどろしく暗いポルノ小説のようにみえるが、これがバカバカしいほどに痛快なピカレスク・ロマンに仕上がっているのである。マルキ・ド・サドの作品にあるような性の哲学はみじんも感じられず、ただただ荒唐無稽なセックスが、ありとあらゆる異常性欲のバリエーションとバイオレンスを伴って展開していく。まるで、カルト・ムービーのようなポルノ小説。ちなみに本国フランスでは発表から間もなく発禁処分となり、1970年まで公刊されなかったという。

当時の私は、男子生徒には手も握らせない (握ってくれる男子生徒もいない) 硬派な16歳だったが、心の中に渦巻く思春期特有のモヤモヤとした思いは、私を東西のポルノ小説(海外のエロチック小説を集めた富士見ロマン文庫というのがあって、それを友達と回し読みしたものだ)や、パゾリーニのボカシだらけの映画(デカメロン、カンタベリー物語、アラビアンナイトの三部作が名画座にかかっていた)などに向かわせた。人生相談ではそういうとき、決まって「スポーツや勉強で発散させなさい」という回答が示されるが、あれはそんなもので発散できるモヤモヤではない。

隠れて読んだ「一万一千本の鞭」に関しては、いきあたりばったりに殺人を重ねるピカレスク小説の側面にはむしろ嫌悪感を覚えたが、残酷シーンの合間に出てくる、登場人物たちの性行為を具体的に描写する部分や、実況放送みたいな会話文に大いに興奮 (*´Д‘)ハァハァ したものである。ああ、それにしても、やらしい訳文だ。(どれだけやらしいかは、図書館または下記で説明している電子書籍でご確認のほど)。

訳者の須賀慣氏(故人)は、本名を鈴木豊というフランス古典演劇が専門の早稲田の教授。モリエールの「人間ぎらい」、「町人貴族」やエドモン・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」など古典の訳書もあるが、ポルノを訳すときは須賀慣(すが・なれる。モリエールの「スガナレル:あるいはコキュにされたと思った男」をもじった)という名を使い分けていた。

と、長々と書いてきたが、ケルンで殉教した聖女プラス乙女たちと、アポリネールの猥本の間にどんな関係があるのか、種明かしをしなくてはいけない。「一万一千本の鞭」の原作タイトルは「Les Onze Mille Verges」という。「Verges」は「鞭」の複数形だが、卑語では「Verge」は男性器を指す。そして、この単語の1番目と2番目の文字の間に「 i 」が割り込んだだけで、「Vierge」(「処女」)に早変わりする。この題名はアポリネールの言葉遊びで、ケルンでウルスラとともに殉教した一万一千人の「処女」は、たった一文字違いで一万一千の「男性器」となってしまったのだ。主人公を処刑した一万一千人の日本兵が手にした「鞭」とはすなわち、彼らの巨大なペニス(当時、海外に流出した歌麿の春画などで日本人巨根説が広まっていた)を想起させる。いったい、なんていう刑罰だ!

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こんなのを見ちゃった欧米人の間には、日本人はスゴイらしいぞという、美しい誤解が広がり…。「一万一千本」の中にも、日本の春画を飾り立てた部屋が登場する。

ちなみにアポリネールは若い頃、貴族令嬢のフランス語家庭教師としてライン地方に滞在した。ケルンの守護聖人であるウルスラと一万一千人の乙女の伝説は、彼にとって身近なものであったに違いない。

上で紹介した文庫本は絶版になっているが、電子書籍として甦り、オンラインで販売されている。273円という低価格も魅力だ。実はさっき、ポチっとやってしまった。また、原文でワクテカしたい人は、こちらでフランス語オリジナルが無料でダウンロードできる。

【つけたし】
ケルンといえば、欧州在住そして日本にいるブログ友たちが12月のケルンに集結して、女人禁制オペラ「アルタセルセ」(レオナルド・ヴィンチ作)の演奏会バージョンを観るという。まことにうらやましい。どうか、ケルンで蛮族や酔漢にからまれたりしないで、実り多くも楽しい「巡礼」をしてきてほしい。実はこの記事は彼女たちのケルン詣での景気付けのつもりで書いた。えっ、ちっとも景気付けになってないって?
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by bonnjour | 2012-11-27 20:12 | 読む
異性装する役者たち-Chantal Aubry著「La femme et le travesti」を斜め読み
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Chantal Aubry, La femme et le travesti (Arles: Editions du Rouergue, 2012)

先週、パリのギメ東洋美術館に「茶の歴史」展を見にいったら、そこのショップに面白そうな本があったので購入した。シャンタル・オーブリー(Chantal Aubry)という著者の「La femme et le travesti(女性と異性装者)」(Editions du Rouergue刊)という、今年10月に出たばかりの大型本である。男性歌手が男役ばかりか女役もこなすバロック・オペラの「アルタセルセ」(レオナルド・ヴィンチ作)ナンシーくんだりまで見に行っての帰り道、パリでこのような本に出会うとは嬉しい偶然だ。

この本は東洋と西洋におけるtravesti (異性装者:本来の性とは逆の服装をする人)の歴史とその文化的背景、それが意味するものを、豊富な図版で紹介したもの。3部構成になっており、第1部では異性装の歴史として、日本の歌舞伎や大衆演劇における女形、中国の京劇(陳凱歌監督の「覇王別姫」のモデルとなった名女形、梅蘭芳が登場する)、インド/インドネシア/ビルマにおける宗教/シャーマニズムと結びついた異性装、多神教であるギリシャ・ローマ世界の演劇における異性装、西洋のキリスト教世界での宗教劇などを取り上げている。

第2部。ここでは西洋近代における異性装役者を考察しており、私はこの部分に興味をひかれて購入したのだった。登場するのはエリザベス朝に一般的だった少年俳優による女形と、女優が演じたシェークスピア劇の男役(ハムレットを演じるサラ・ベルナールなど)。イタリア・スペイン・英国における状況、バロック期フランスにおける異性装(例えば太陽王ルイ14世は若い頃、女の姿でバレエを踊った)、そしてカストラートが活躍したイタリア(女が人前で歌ったり踊ったりするのは淫らだと考えられ、去勢男性歌手が女役を演じた時代)、フランス革命前の状況(モーツアルト「フィガロの結婚」のケルビーノはこの文脈で語られる)。そして19世紀の演劇およびオペラにおける女優・女性歌手の男装。

第3部は、19世紀末から現代に至る演劇の世界や作家・芸術家による男装と女装を取り上げ、女性解放の流れや70年代の意識革命との関連を論ずるもの。三島由紀夫の「サド侯爵夫人」や、乱歩の原作を三島が戯曲化した「黒蜥蜴」(美輪明宏演じる美貌の女盗賊と木村功の明智小五郎が顔を寄せ合う、妖しくも美しい写真あり)なども例に挙げられている。

白状してしまえば、私も高校生ごろから30に手が届くころまでは異性装じみた服装が好きな女であり、テーラードのパンツスーツ、ネクタイ、カフリンクスといったものを好んで身に着けていた。それは、女らしさを強調する服より、ありのままの自分をよく表現できると感じたからだが、会社の口の悪い同僚からは、「なんだお前、レズビアン・バーのママみたいな格好して」と茶化されて苦笑した。そうした装いをしなくなったのは、加齢とともに男装的ファッションが「痛く」なってしまったからである。

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第2部「近代西洋における異性装役者」の「カストラートたちのイタリア」より。

上の写真の左ページにある写真の説明: 「カウンターテナーのフィリップ・ジャルスキーは、女性を演じたことはない。バロック期の作曲家ステファノ・ランディによる宗教オペラ『聖アレッシオ』では、彼はこの聖人を演じた。共演したのはマックス・エマニュエル・チェンチッチやクサヴィエ・サバタなど、7人のカウンターテナーである。」

オール男性キャストによる「聖アレッシオ」の上演(2007年)が例に挙げられているだろうと思ったら、やっぱりそうだったが、今回の「アルタセルセ」の上演が、この本の執筆に間に合わなかったのは残念だ。

右ページの写真の説明: 「1998年にリヨン国立歌劇場で上演された、ペーター・エトヴェシュ作曲、ケント・ナガノ指揮、天児牛大演出の『三人姉妹』に出演したベジュン・メータ(写真中央)。」音を聴いていないのでなんともいえないが、写真だけでもインパクトがある。衣裳とメイクは、故・山口小夜子が担当している。



「聖アレッシオ」で主人公の妻を演じるチェンチッチ(上の動画)。新婚初夜に自分を置いて神を求める放浪の旅に出てしまった夫アレッシオ(フィリップ・ジャルスキー)を思い、息も絶え絶えに嘆くチェンチッチの演技は鬼気迫るものがあった。後ろには、乞食に身をやつして家に戻り、階段の下に住みついたアレッシオ。身元を明かしたくても神への愛ゆえに明かせない、揺れ動くアレッシオの心情表現も見どころである。フェミニンな顔立ちでソプラノに近い声質のジャルスキーが男役、顔だけ見たらどうやっても女に見えないチェンチッチが女役を演じている。



ダニエル・シュミット監督が坂東玉三郎にスポットを当てて日本の伝統芸能に迫るドキュメンタリーThe Written Face(書かれた顔)(1995年)。
「男の画家が女を描くのと同じように、(自分は)女形を描いてきた。男の作家が女の気持を書くのと同じように、ある種の客観性をもって、自分の人間的な魂に乗っけて、女の理想、これが女なのじゃないかと思うエッセンスみたいなものを描いてきた。それが、女形なんじゃないか」と語る玉さま。この言葉は、上記の本「La femme et le travest」にも引用されている。

「聖アレッシオ」の制作にあたっては、歌手たちに玉三郎のビデオを見せて、男が女を演じることの本質を掴んでもらったという逸話がある。彼らに見せたビデオとは、このドキュメンタリーではないだろうか?

さて、話は変わりオペラ「アルタセルセ」だが、これが初演されたローマでは当時、教皇の命令により女性が舞台に立つことは禁止されていた。そういう事情から、作曲段階から男女すべてのキャストに男性歌手(カストラートおよび非カストラート)をあてて書かれた作品であるが、ここではカストラートは女性歌手の代用品ではなく、オペラの「必需品」になっている。高音を無理なく出せる少年の声帯を維持しつつ、肺活量の大きい成人男性の体躯(去勢によるホルモン異常で、むしろその身体は巨大化する傾向にあったという)を持ったカストラートたちは、幼い頃からの音楽のスパルタ教育の甲斐あって、人間離れした美声と高度な技巧を兼ね備えたスーパースターだった。(ただし、去勢された子供たちのうち、才能に恵まれカストラート歌手になれたのはごく少数であり、そのまた少数がスターの座につけるという、極めて歩留まりの悪い残酷な世界である)。

さらにいえば、人工美の極致といえるカストラートの歌声の音楽的魅力に加え、男性歌手ばかりの舞台で繰り広げられる、性別と役柄がねじれた虚構の世界に当時の観客はワクワクしたのではないか。しかも、英雄や美女を演じているカストラートたちは、美しい歌声と引き換えに男性としての生殖機能を奪われた、マージナルな存在である。男であって男でない人々。人間であって天使の声を持つ人々。これが二重の「ねじれ」を生む。

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Photo: Opéra national de Lorraine

翻って、ナンシー歌劇場の「アルタセルセ」は、カウンターテナー唱法という極度に洗練されたテクニックを持つ、現代の(肉体的にはなんの小細工も施されていない)歌手たちが、かつてのカストラートのパートを歌うという試みだ。安定した音色、正確な音程、広い声域など、いくつものハードルをクリアしたうえで、芸術性の高い歌唱ができる若手のカウンターテナー歌手を5人も揃えたのは快挙である。そんな彼らが演じた男女の恋人どうしは、どうだったか。

アルタセルセ王の親友アルバーチェ(男)を演じるフランコ・ファジョーリ(上の写真右側)の、妙につるりとした風貌はどちらかというと女性的だし、その恋人であるマンダーネ(女)役のマックス・エマニュエル・チェンチッチ(同・左側)は、鼻や顎の線がはっきりとした精悍で男性的な容姿である。この二人による第3幕の二重唱「Tu vuoi ch'io viva o cara!」(下の動画)は、あくまでも美しく、心を打つ歌であるが、メゾソプラノの音色でありながらその芯にはあきらかに男性を感じさせる2つの声がからみあい、ハーモニーを奏でるところに、たまらない倒錯性を感じてしまう。とりわけ、低音部での胸声を混ぜた発声でこの二人のカウンターテナー歌手がハモるところなんて、目と耳から入ってくる情報だけでは男女の愛の歌なのか男どうしの愛の二重唱なのか訳が分からなくなってきて、なんだか覗いてはいけない世界を覗いてしまった気がした。



【つけたし】
「アルタセルセ」でファジョーリの驚異的な歌唱に接し、今自分の中でこの歌手がブームになっている。そんなファジョーリの「普及活動」にかなり前から取り組み、彼のレパートリーや出演情報、放送およびディスク発売予定などをこまめに発信してくださっているのが、ブログ友であるアルチーナさんだ。ファジョーリに興味をもった方は、「アルチーナのブログ」を訪問してみよう。また、ウィキペディア(日本語版)の彼のページも必見。(だって bonnjour が投稿したんだもん)。

【余計なひと言】
「アルタセルセ」におけるチェンチッチの、容姿でなく歌と仕草で見事に女を演じた名女優ぶりは、「マルシャリン」を彷彿とさせる瞬間もあったといったら、シュヴァルツコップのファンに殴られてしまうかな?

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Photo: Opéra national de Lorraine

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Photo: Elisabeth Schwarzkopf as the Marschallin in Richard Strauss' Der Rosenkavalier
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by bonnjour | 2012-11-23 02:08 | 読む
ロンサールの「カッサンドルへのオード」
ルネサンス期フランスの詩人、ピエール・ド・ロンサール(1524-1585)の手になる「カッサンドルへのオード(頌歌)」。朝、咲いたと思ったら夕べには朽ち果ててしまった薔薇になぞらえて、若さや美の儚さをうたったものだ。原詩の朗読はこちらで聞ける(リンク先ページ上部の薔薇の写真の右にある「écouter: Cliquez ici pour écouter le livre audio entier」というリンクをクリック)。

Ode à Cassandre

Mignonne, allons voir si la rose
Qui ce matin avoit desclose
Sa robe de pourpre au Soleil,
A point perdu ceste vesprée
Les plis de sa robe pourprée,
Et son teint au vostre pareil.

Las ! voyez comme en peu d'espace,
Mignonne, elle a dessus la place
Las ! las ses beautez laissé cheoir !
Ô vrayment marastre Nature,
Puis qu'une telle fleur ne dure
Que du matin jusques au soir !

Donc, si vous me croyez, mignonne,
Tandis que vostre âge fleuronne
En sa plus verte nouveauté,
Cueillez, cueillez vostre jeunesse :
Comme à ceste fleur la vieillesse
Fera ternir vostre beauté.

-- Pierre de Ronsard

カッサンドルへのオード

恋人よ、みにゆこう、
けさ、あけぼのの陽をうけて
紅の衣をといた、ばらの花
今宵いま、赤い衣のその襞も
あなたににた色つやも
色おとろえていないかと。

ああ、ごらん恋人よ、
何とはかない、バラの花 
大地にむくろをさらすとは!
おおつれない自然  
この花のいのちさえ、
あしたから、ゆうべとは。

だから恋人よ、
ぼくのことばを信じるならば、
水々し、花の盛りのその齢に
摘め、摘め、あなたの若さを、
この花ににて、じきにくる老年に
あなたの美しさも褪せるのだから。 

出典:平凡社 世界名詩集大成 
オード集 ロンサール(窪田般弥・高田勇訳)



この詩にちなんで、ロンサールの名前を冠した薔薇の品種もある。
↓ これが薔薇の「ピエール・ド・ロンサール」。
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↓ でも、詩人のピエール・ド・ロンサールさんは、こんな顔。
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この詩には複数の作曲家が音楽を付けているが、ここで紹介するのは女流作曲家の先駆けであるセシル・シャミナード(1857-1944)による「Mignonne」。原詩の第3スタンザにある「Cueillez, cueillez vostre jeunesse」(摘め、摘め、あなたの若さを)のあたりの、急きたてられるような感じが割と好きだ。フィリップ・ジャルスキーの新アルバム「オピウム(阿片)~フランス歌曲集」に収録されている。


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by bonnjour | 2009-03-09 13:58 | 読む
家主のLさんの本棚
今住んでいるアパートは、現在北京に語学留学中の家主のLさんが出て行った部屋をそのまま借りているので、本棚には彼女の本が残ったままだ。自分の本棚を見られるのは心の中を覗かれるような気がして落ち着かないが、悪趣味なことに私は他人の本棚を覗くのが大好き。本棚にはその人の心の軌跡が現れているようで興味深いのだ。

Lさんの本棚には、「ブリジット・ジョーンズの日記」とか、パトリック・ジュスキントの「香水」とか、ジェイミー・オリバーの料理本とか、自分の持っている本と重複するものがたくさんあって面白い。マスコミや通信が発達した今の世の中では、メジャーな国のベストセラーはすぐに他言語に翻訳されて世界各地に広がっていく。しかも、都会に住む勤労女子という共通点を持つLさんと私は、国は違っても似たような趣味・嗜好を身に付け、似たような本を読むようになるのだろう。
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Lさんの本棚にあった、もうひとつの共通する蔵書 (WOW!)
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ところで、私は各地で買い集めたエロチック・アート本をコレクションしているのだが(海外で買った本を携えて成田の税関を通るときにはドキドキしたものだ)、ヨーロッパに移住するときに蔵書はすべて船便でこちらに送った。とはいえ引っ越し続きの生活のため、本の詰まった大量のミカン箱は相棒の実家のガレージに塩漬けになったまま。早く手元に戻したいものだ。
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by bonnjour | 2008-07-30 04:10 | 読む
大岡昇平「ザルツブルグの小枝」
作家・大岡昇平が1953年から54年にかけて、ロックフェラー財団の奨学金で米国とヨーロッパに1年間の留学をした際の旅行記。大岡はこのとき、44歳。妻子を日本に置いての単独渡航だ。

終戦から10年も経たない1953年という時期に、米国の財団が旧敵国の作家に対して、1年間の旅費(米国とヨーロッパの主要な都市を軒並み訪問している)と滞在費を丸抱えという気前のよいオファーを行ったことに驚く。もっとも、旧敵国の文化人に対してだからこそ、このようなプログラムを通して欧米の文化を紹介し、日本での宣伝役となってもらおうとしたのだろう(その試みは、半分成功して、半分失敗しているように、私には思える)。

大岡昇平はフィリピン戦線に出征し、この世の地獄を経験した後、米軍の俘虜となって終戦を迎えている。10年前には敵国であった米国に、今度は権威あるロックフェラー財団の留学生として乗り込んでいく心の葛藤や、東洋人ということで幼い子供にまで侮蔑の目を向けられる屈辱、日本人としての自負とそれに裏腹なコンプレックス(敗戦後の日本人が皆抱いていたであろう)などが、軽妙な旅行記の端々に見え隠れする。

タイトルの「ザルツブルグの小枝」は、大岡が心酔し研究の対象としたスタンダールの、「恋愛論」で述べられる「恋愛の結晶作用」から来ている。結晶作用とは、ザルツブルグの塩抗に投げ込まれた小枝が、ほどなくしてダイヤモンドのような塩の結晶できらびやかに飾られるように、恋する者は恋愛の対象を徹底的に美化するということだ。この題名は、大岡が恋焦がれた欧米の文化・風物に対する「結晶作用」をも、示唆している。

ところで文中には「(ルーブル美術館の)二階に引き返したら、吉田秀和君にばったり会った」、「森(有正)君はフランスに来てもう五年になる」、「作曲勉強中の若い別宮君の感想では」等々、作者が滞在中に会った人々の名前が随所に出てくる。あの頃は、みんな、若かったんですね。
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by bonnjour | 2005-10-17 21:03 | 読む
日本語の本が読みたい!
日本にいた時は図書館のヘビー・ユーザーだった。週末には貸し出し限度の10冊(杉並区立図書館の場合)を借りて、夜遅くまで読みふけったものだ。また、大型書店での立ち読みマニアでもあり、服屋がなくても美容院がなくても一向にかまわないが書店がないのだけは困る、と思っていた。

それが、外国に来てしまうと状況が一変する。ボンは大学町だけあって書店は沢山あるのだが、ほとんどがドイツ語の本で(当たり前か)私には読めない。かろうじて書店の一部に「外国語本コーナー」として売れ筋の英語本が並んでいる程度。

で、日本語の本探しはあきらめて、今、ロードショーされている(フランスの映画館にかかっているのを年末に目撃したが、ボンには来ていない)ブリジット・ジョーンズの日記(続編)を買った。ペーパーバックで1500円くらい。結構、高いなー。c0163963_22135859.jpg

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by bonnjour | 2005-01-13 22:12 | 読む