B的日常
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ドイツ、デンマーク、フランス(一瞬)と、流浪の生活を約10年。昨年秋にポーランドに流れ着く。音楽、美術、風景、食べ物など、美しいものや変わったものを追いかけて味わうのが好き。
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美しいものや変わったもの、美味しいものを追いかけるのが好きです。日々の生活で接した、そうしたものへの感想を綴っていきます。過去の記事であってもコメントは大歓迎です。メールはこちらにどうぞ。
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進化する「アルタセルセ」-演奏会形式の公演をネットラジオで聴く
誰もが忙しい大晦日に、こんなエントリーでもないと思うのだが、忘れないうちに書いておく。

日本時間の本日未明にスイス・ロマンド放送のクラシック専門局Espace2で、レオナルド・ヴィンチ作曲のオペラ「アルタセルセ」の、演奏会形式の公演(11月25日、ローザンヌ歌劇場にて収録)がオンエアされた。それに先立つ11月6日と8日に、私はナンシー歌劇場でこのプロダクションのフル・ステージ版を見ているのだが、演奏会形式はまた違った意味で面白いぞという話を、各地の公演(ウィーン、ローザンヌ、パリ、ケルンを巡回している)に行った人々から聞いていたので、大きな興味をもってリアルタイムで聴いてみた。
キャスト
Artaserse: Philippe Jaroussky
Mandane: Max Emanuel Cencic
Artabano: Daniel Behle
Arbace: Franco Fagioli
Semira: Valer Barna-Sabadus
Megabise: Yuriy Mynenko

Concerto Köln
Direction musicale: Diego Fasolis

まず、フル・ステージ版に比べて全体的にスピードがますます速くなっているのに驚いた。バロック式の重い衣裳や鬘を脱ぎ捨てたら、身軽になったというわけでもあるまいが。演奏会形式にするにあたり、出演者ひとりにつきアリア1曲を割愛し、レチタティーヴォも大胆にカットしていることもあり、コマ落としのようにストーリーが進んでいく。この作品はもともと、カストラートの大スターたちを勢揃いさせて独唱を競わせるような作りになっており、アルバーチェ(ファジョーリ)とマンダーネ(チェンチッチ)による3幕目の感動的な二重唱を除き、すべてが独唱曲なのだが、レチタティーヴォをかっ飛ばしてアリアが次から次へと出てくるさまは、ケルンで演奏会版を見たレイネさんが「白白歌合戦」と形容した通りである。

この様子は、ウィーンでの演奏会形式上演を報じた「ル・モンド」紙2012年12月10日付記事でも触れられているので、ご紹介しよう。

「ウィーンで上演された(後日、パリでも上演される)演奏会形式のバージョンは、大幅にカットされている。カウンターテナーたちは各自が一曲ずつアリアを削られ、レチタティーヴォも短縮された。とはいえ心配は無用だ。情熱的で流麗かつこまやかなディエゴ・ファゾリスの指揮のもと、熟練の音楽家集団であるコンチェルト・ケルンが奏でる音楽に乗って、すべては稲妻のように駆け抜ける。高音で歌う我らが歌手たちは、名人芸を互いに競い合う。」(以上、拙訳)

そして装飾音とカデンツァが、先行発売されたディスクやフル・ステージの演奏から進化している。こういう実演は生もので、どんどん変化していくというが、まさにその通りだ。中にはとても面白い装飾音やカデンツァを付ける人もいたので(ジャルスキーとかファジョーリとか)、あとでスコアを見ながら(手稿譜を写真に撮ったものなので、ウルトラ見にくいが)じっくり聴き返してみたいと思う。

個々の歌手の声そのものについては、あまり断言ができない。それというのもネットラジオの音質が非常に悪くて、音がくぐもるうえに高音部に変な歪みがあった。このネット放送はビットレートが128kbp(mp3, rm)ということなので、音質はそれほど劣悪ではないはずなのだが、受信者つまり私の問題なのかもしれない。ケーブルテレビ経由のブロードバンド接続を、家庭用の無線LANルーターで階下から2階に飛ばしているのだが。

しかし音質がいまひとつの中でも、歌手どうしが良い意味でのライバル意識をかきたてて、歌唱がどんどん上向きになる現象は見てとれた。例えば、ファジョーリ演じるアルバーチェとジャルスキーのアルタセルセという親友コンビがレチタティーヴォで対話するときに、ディスクやフル・ステージの舞台ではやらなかったような高音の装飾音をそれぞれ付けていて、おっと思った。ちょっと不自然なほどの装飾音だったので、もしかすると往時のカストラートたちの歌合戦状態を戯画化したのかもしれないが。

さて、この企画そのものについて。

アムステルダム在住の熱心な音楽ファンであるPさんが、千秋楽(12月27日)のケルンで、このプロダクションをナンシー歌劇場と共同製作したParnassus Arts Productionsの代表、ジョージ・ラング氏に聞いたところでは、カウンターテナーが5人も出る男性だけのオペラ公演というコンセプトに、多くの歌劇場が尻込みして、最初は制作パートナーを探すのに苦労したそうだ。その困難を乗り越えてヨーロッパ・ツアーを成功させた手腕に敬服する。Parnassusには、今回の配役の大半の歌手たち(チェンチッチ、配役中唯一のテノールをダブルキャストで務めたベーレとフアン・サンチョ、最近移籍したファジョーリ、そしてミネンコ)が所属しており、アーティストのラインナップをみるとカウンターテナーに大変に強い事務所であることがわかる。

レイネさんがブログですでに書いている通り、このプロダクションは2014年にヴェルサイユ(3月、フル・ステージ)とアムステルダム(5月、演奏会形式)が再演が決まっているので、さらに進化したアルタセルセ2.0みたいのが聴けるのではないかと楽しみだ。

また、今回のプロダクションのアーティスティック・コンセプトとキャスティングは、マンダーネというスカート役を熟達した「声の演技」で演じきったチェンチッチが兼務で担当しているが、これだけの歌手を適材適所に配置した慧眼とプロデュース力に敬意を表したい。指揮者とオペラ歌手の両親のもとに生まれ、ウィーン少年合唱団では子供離れした圧倒的な歌唱力でソリストを務めた彼だが、将来の夢はオペラのプロデューサーだときく。それに向かって着実に歩みを進めているのがよくわかる。ローザンヌ公演に先立っては、地元のテレビ局の文化ニュースに出演して宣伝に努めていた(彼が流暢なフランス語で、しかし外国語であるからかちょっとためらいながら話す様子には萌える)。
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by bonnjour | 2012-12-31 11:26 | 聴く&観る
ロレーヌで生まれてナポリで活躍したカタストロフィ画家
先週ナンシーで見たレオナルド・ヴィンチのオペラ「アルタセルセ」は、舞台の中ほどに置かれた大きなスクリーンの幻想的な絵画が印象的だった。古代神殿のような建物の内部で、円柱が派手に崩壊している絵である。

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↓ アップになると、こんな感じ。
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この絵の作者はモンス・デジデリオ(Monsù Desiderio)といい、フランソワ・ド・ノメ(François de Nomé)、ディディエ・バラ(Didier Barra)、そして少なくとももう一人の氏名不詳画家の共同ペンネームである。ド・ノメとバラは、ともに16世紀末にロレーヌ地方のメスに生まれ、イタリアに渡って17世紀前半のナポリで活躍した。

舞台装置ではグリザイユ(モノクロ絵画)になっているが、オリジナルは「偶像を破壊するユダ王国のアサ王」という作品(下写真)だ。画面右手の、円柱が崩れ落ちて火が上がっているところなど、さしずめ現代の劇画なら「ガラガラ、ドスン」などという書き文字が使われそうな勢いだ。
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モンス・デジデリオ「偶像を破壊するユダ王国のアサ王」

この絵でみるような、カタストロフィをテーマにした作品が、モンス・デジデリオの特徴であり、それは混乱と不安の時代を反映したものであるという。文筆家のグスタフ・ルネ・ホッケは、名著「迷宮としての世界」の中でデジデリオを、最後の偉大なマニエリスム芸術家と呼んでいる。マニエリスムとは、盛期ルネサンスとバロックの合間に出現した、極度に技巧的・作為的で誇張や非現実性に彩られた芸術様式であり、それが生まれた時代背景にはローマ略奪(1527)、宗教改革、ローマ教皇の権威の失墜といった世の中の混乱がある。

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モンス・デジデリオ「炎上する遺跡」

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モンス・デジデリオ「スザンナと長老たち」

さて、モンス・デジデリオことフランソワ・ド・ノメとディディエ・バラは、ロレーヌ地方に生まれ、ナポリで活躍したと書いた。そして今回は、ロレーヌ国立歌劇場(ナンシー)で上演されたナポリ楽派の主要な作曲家であるレオナルド・ヴィンチのオペラに、その絵画作品が舞台装置として使われた。この符合が、なんだか嬉しい。
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by bonnjour | 2012-11-18 00:20 | 聴く&観る
ナンシー歌劇場「アルタセルセ」をライブ放映
ナンシーのロレーヌ国立歌劇場で上演されたレオナルド・ヴィンチのオペラ「アルタセルセ」は、千秋楽の11月10日の公演が欧州のクラシック音楽専門チャンネルMezzoでライブ放映された。チャンネル契約者以外は見られなくて悔しい思いをしていたら、熱烈ファンが早速、さわりの部分をYouTubeにアップしてくれているのでご紹介する。

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冒頭のシンフォニアでは、衣裳をつける前のTシャツ(ナンシー歌劇場のロゴ入りだ)やバスローブ姿の歌手たちが舞台に一列に並ぶ。彼らが、これからこのオペラの登場人物に変身して物語が繰り広げられる、という舞台裏を見せるような演出。若くて威勢のいい男が6人も横一列に並ぶと、それだけでじゅるっとなってしまう この作品への期待感が高まるのだった。



第1幕、Scena IV+V: Per pietà, bell'idol mio (アルタセルセのアリア)。抒情的なアリアを歌わせたら並ぶ者のないジャルスキー(アルタセルセ役)。すれ違う恋人たちの心を象徴するかのように、前景のアルタセルセと後景のセミーラ嬢(サバドゥス)が交差する。白鳥のような衣裳を着けたサバドゥス君の可憐なダンスも見もの。



第1幕、Scena XIV: Vo solcando un mar crudel (アルバーチェのアリア)。今までの深刻な物語とまったく無関係に、突然ファジョーリ(アルバーチェ役)が伝説のカストラートかと見まごうばかりの派手衣裳とバロック・ゼスチャーで歌いだす超絶技巧アリア。別名、失神アリア。舞台を見た私は、ファジョーリがイキナリやらかしてくれた!と度肝を抜かれた。下のビデオの8:35頃には、歌謡ショーばりに、金色の紙吹雪が一面に降り注ぐのが見えるだろう。1幕目最後のこのアリアに、盛大なブラボーが飛んだのは、ビデオで見る通りである。



第2幕、Scena VI: Se d'un amor tiranno (マンダーネのアリア)殺された父王の復讐を願う気持ちと、下手人とされる恋人アルバーチェへの思いの間で揺れ動く女心をせつせつと歌いあげるチェンチッチ(マンダーネ役)。衣裳に目を移せば、女らしいマンダーネはオレンジ色のドレス、清楚なセミーラは緑色のドレスと色彩の対比も美しい。でもってマリー・アントワネットのように高く結いあげた髪には薔薇の花が飾られていて。そこまで、やるか!(笑)



第3幕、Scena VII: Tu vuoi ch'io viva o cara (アルバーチェとマンダーネの二重唱)。アリアが次から次へと放たれるこのオペラ唯一の二重唱にして、心を打つ美しい旋律の作品。衣裳とメイクのせいもあるが、生物学的には男である2人の歌手が男女の愛の二重唱を歌っていても、まったく違和感がない。それは上辺ではなく、女の「心」を歌っているからだろう。芸術の勝利。まさに、歌舞伎の世界。

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"Quando finisce, o dèi, la vostra crudeltà!"(おお、神々よ、あなたの無慈悲はいつになったら止むのでしょう)の”la vostra crudeltà!”(あなたの無慈悲)に現われる平行3度がゾクゾクするほどきれい(上記)。あと、下のビデオの1:22および5:21のあたりで、「crudeltà!」の語尾の「tà!」が、二人とも胸声をミックスした男性的な声になるのが変態チックでよい。



【余談】
ファジョーリ(下の写真右)は素顔がのっぺりしているせいか、白塗りメイクですごい色男に変身する。まるで男役の歌舞伎役者みたいだ。相手役のチェンチッチ(同・左)は顎が割れている男性的な顔立ちだけど、女性の仕草をよく研究していて見事に化けている。

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でもって、ファジョーリって「ソラマメ」に似てませんか?いや、苗字からの連想(fagioli = 豆)かもしれないけれど・・・。

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by bonnjour | 2012-11-13 10:59 | 聴く&観る
5人のカウンターテナーを追っかけてナンシーまで (続編):「アルタセルセ」公演再訪 


5人のカウンターテナー、プラス1人のテノールによる、耳にも目にも鮮やかで豪華なバロック・オペラを追っかけてナンシーまでやってきたのが一昨日。せっかく来たからには同じ公演を2回観て帰らなければ勿体ない、ということで11月8日(木)夜に再訪した。前回はオペラの筋を追うので精一杯だったが、2度目ともなるともう少し踏み込んで鑑賞できた。

今回は、公演で発見したこと、自分なりに感じた「このプロダクションの見どころ」について、いくつかの項目に沿って書いてみたい。

カウンターテナーの多彩な音色の競演

カウンターテナー(CT)は声種にすぎないので、ソプラノにレッジェーロからドラマティコまであるのと同様、歌手によってその音色やスタイルはまちまちだ。今回のプロダクションは、若手世代の大スターおよび期待の新星といえるCT歌手5人を聴き比べできる、嬉しい機会となった。

タイトルロールのジャルスキーは、少年のような透明感のある極めて独特な声の持ち主で、ピアニッシモの美しさと見事なブレスのコントロールで感情をきめ細かく表現する人だ。悩み多いアルタセルセの内面を表現するのに彼ほど適した歌手はいないだろう。

ジャルスキーとならぶCT界の大スター、チェンチッチは、上質のビロードのような質感の声の持ち主で、とても官能的な歌唱をする。安定感も抜群。おまけに女役の演技はひとつの様式美を生み出している。

男バルトリの異名を取るファジョーリ。スターの階段を超高速で登っている。大変に豊かな響きの中音域と輝かしい高音域、そして時たま「男」を感じさせる低音の胸声を駆使して難曲をやすやすと歌ってみせる。末恐ろしい才能だ。

1986年生まれと若いのに堂々と舞台をつとめたサバドゥスの声質は、チェンチッチに近い「ビロード系」だと思った。2幕目のアリア「Per quell'affetto」のカデンツァではディーバ的(女役だから)な高音の技巧を披露して、これまた将来が楽しみな歌手。

これまた若いミネンコの声は、明るくて軽め。1幕目のアリア「Sogna il guerrier le schiere」や2幕目の「Non temer ch'lo mai ti dica」は、速いパッセージを軽快に歌いきった。将来、声がどのように円熟していくか興味がある。

演歌バロック?

CTファンのブログ&Twitter仲間の間で「これって演歌?」と話題になったのが、チェンチッチの歌う1幕目のアリア「Dimmi che un empio sei」。父王殺しの犯人とされた恋人アルバーチェを憎もうとしても憎みきれない、相克する女心を激流のようなテンポで歌う。緊迫感あふれるオケの演奏も素晴らしい。



もうひとつ「演歌」だと思ったのは、アルタセルセの1幕目のアリア「Deh respirar lasciatemi」。親友アルバーチェを裁くことを迫られ、苦しい胸のうちを告白するアリアだ。これは上記とは対照的に「男系」の演歌。



カストラートのパロディ?

アルバーチェ役は、作曲当時のカリスマ的カストラート、カレスティーニのために書かれた。1幕目最後のアルバーチェのアリア「Vo solcando un mar crudel 」をファジョーリが歌いだすと、物語の前後の脈絡を無視して衣裳は急に純白の上衣とジレ、ひざ丈のキュロットというバロック様式になり、ルイ14世みたいなかつらまで頭に載せる。(このかつらが、なぜか頭のてっぺんに「猫耳」状の塊がついている奇怪なもので、漫画世代の私は「綿の国星かよ」とつぶやいてしまった)。そして振り付けにはバロック・ゼスチャーが使われている。往年のカストラートが技巧の限りをつくしてアリアを披露し、ご婦人方が失神したという逸話をパロディにしたものに違いない。

↓ 大見得を切ったカストラート的歌唱。最後には失神寸前のアルバーチェ=ファジョーリ
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Photo: Opéra national de Lorraine

歌舞伎の女形を研究してる?チェンチッチと、「白鳥の湖」みたいなおぼこ娘サバドゥス

チェンチッチの「見かけでなく動作で女を感じさせる」女役ぶりは、歌舞伎の女形を参考にしているのでは?異性である男性が女を「演じる」からこそ真に女らしい演技ができる、という意味の玉三郎の言葉は、チェンチッチにもあてはまる。
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Photo: Opéra national de Lorraine

そしてもう一人の女役、サバドゥスはおぼこ娘役にふさわしい、真っ白な羽根を多用した衣裳で登場し、まるで「白鳥の湖」だった。しかも、バレエでいうところの「pas de bourrée couru」(実例ビデオはこちら)みたいな動きでチョコチョコと歩くのだからますます白鳥化している。恋人アルタセルセの1幕目のアリア「Per pietà, bell'idol mio」の最中に、サバドゥスの可憐な白鳥ぶり(下の写真)が堪能できる。

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ちょっとこれ↓が入っているけど(笑)。
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2人のバロック紳士が織りなす「友情」というにはあまりに濃い友情

ジャルスキーとファジョーリが怪しいのである。いや、役柄の上だけの話だけど。セルセ王殺しにより、無二の親友同士であるアルタセルセとアルバーチェの間には大きな溝ができてしまうが、アルタセルセはアルバーチェを見捨てることができない。3幕目にアルバーチェが「海から分かれた水は、いつも大海に戻ることを夢見ている」という比喩でアルタセルセに対する忠誠心を打ち明けるアリア「L'onda dal mar divisa」では、2人は白塗りメイクでバロック衣裳に身を包み、これまたバロック・ジェスチャーが出てくる。そしてアルバーチェ・ファジョーリをうっとりと(ねっとりと?)見つめるアルタセルセ・ジャルスキー。「友情」というにはあまりに濃すぎると思わないか?この場面だけ、なんだか違った空気が流れていた。
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Photo: Opéra national de Lorraine

モーツアルトにも通じる天国的な二重唱(チェンチッチ&ファジョーリ)

カストラートの名人技を聴かせるのが目的とばかり、ソロのアリアばかりが立て続けに登場する当作品だが、3幕目にはアルバーチェとマンダーネのカップルによる二重唱「Tu vuoi ch'io viva o cara」が用意されている。その美しさは天国的と表現してよいだろう。そして、感情の動きに合わせた転調の妙。あまりの美しさに、私は不覚にも泣いてしまった。



幸い、パブリックドメインの楽譜ライブラリーIMSLPに楽譜がアップされているので、それを見ながらきくとますます味わいが深い。そして相方を見つけて自分で歌ってみたら、ますます味わいが深くなると思う。

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            (女)いやよ。               (女)行って。
   (男)きいてくれ。         (男)・・・君は。



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(女)目の前から消えて頂戴。        (女)ほっといて、お願いだから。
                   (男)愛しい人。 

この曲を聴いて、私はモーツアルトのオペラに登場する数々の二重唱を連想した。例えば「フィガロの結婚」の伯爵とスザンナの二重唱「Crudel Perche Finora」。二人の掛け合いの妙や、ハーモニーの美しさなど、通じるものがないだろうか。牽強付会なことをいえば、モーツアルトは幼い日、父レオポルドに連れられて当時のオペラの中心地ナポリ(「アルタセルセ」の作曲者ヴィンチもナポリで活躍した人だ)を訪れており、後年のオペラ作品にも伏流水のようにナポリ派の伝統が流れているというではないか。


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by bonnjour | 2012-11-09 09:52 | 聴く&観る
5人のカウンターテナーを追っかけてナンシーまで: ロレーヌ国立歌劇場の「アルタセルセ」を観る
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ピエトロ・メタスタージオ(1698 – 1782)の台本にナポリ楽派の作曲家レオナルド・ヴィンチ(1690 - 1730:モナリザの人とは別人)が曲をつけたオペラ「アルタセルセ」を観に、フランスのナンシーまで出かけた。たまたまブラジル赴任中の夫が仕事を兼ねてマルセイユに帰省しているので、現地で落ち合うというのを口実きっかけにした旅行である。

今回はロレーヌ国立歌劇場(ナンシー)と、カウンターテナーのマックス・エマニュエル・チェンチッチやフランコ・ファジョーリが所属する音楽事務所のParnassus Arts Productionとの共同プロデュースで、作曲当時と同じ、男性歌手だけを起用したプロダクションである。しかも当時はカストラート全盛時代のため、現代の演奏ではカウンターテナーが5人にテノールが1人という、ある種いびつな構成になった。キャストは、カウンターテナーが上記のチェンチッチ(声も姿も女になりきるのが上手)とファジョーリ(男バルトリ?)に加え、フィリップ・ジャルスキー(フランスの恋人?)、ヴェラール・バルナ=サバドゥス(ルーマニアの新星)、ユーリ・ミネンコ(ウクライナ産も負けてません)。そしてテノールがフアン・サンチョ(スペインの色男)。オケはディエゴ・ファソリスを指揮に迎えたコンチェルト・ケルン。テノールの配役だけ変えたCDが先月リリースされていて、オペラの舞台への期待感をあおるのは巧妙なマーケティングである。

【スタッフ】
音楽監督 : Diego Fasolis
演出 : Silviu Purcărete
美術・衣裳・照明 : Helmut Stürmer
照明 : Jerry Skelton
バロック・ジェスチャー監修 : Nathalie van Parys
化粧 : Cécile Kretschmar

【キャスト】
アルタセルセ(ペルシャ王子。後に王): Philippe Jaroussky
マンダーネ(アルタセルセの妹。アルバーチェと恋仲): Max Emanuel Cencic
アルタバーノ(王室護衛隊長。アルバーチェとセミーラの父) : Juan Sancho
アルバーチェ(アルタセルセの親友、マンダーネの恋人) : Franco Fagioli
ゼミーラ(アルバーチェの妹。アルタセルセと恋仲) : Valer Barna Sabadus
メガビーゼ(ペルシャ軍の大将でアルタバーノの腹心。セミーラに横恋慕) : Yuriy Mynenko


【あらすじ】
時は古代ペルシャ。王セルセ(クセルクセス)は、彼を憎む王室護衛隊長アルタバーノ暗殺される。アルタバーノの息子アルバーチェは王女マンダーネと恋仲だが、身分違いといわれ王から交際を禁じられていたのだ。アルタバーノは王の血にまみれた剣をアルバーチェの剣と交換すると、素知らぬ顔で王殺しの罪を王子のひとり、ダリオ(ダレイオス)になすりつける。しかしアルタバーノの最終的な目的は、セルセ王の後を継いで即位した王子アルタセルセ(アルタクセルクセス)をも暗殺して、自分の息子アルバーチェをペルシャの支配者にすることだった。

アルタセルセはダリオの処刑を命じるが、思い直して命令を撤回する。しかしダリオの処刑はすでに執行されていた。後悔するアルタセルセに、ダリオが無実だったとの知らせがもたらされる。血塗りの剣が証拠となり、新たに王殺しの下手人として捕らわれたのはアルバーチェだった。自分の潔白を主張すれば父親を死なせることになるアルバーチェは、申し開きをためらう。一方、アルタセルセは親友アルバーチェがまさか父王を殺したなんて信じられない、信じたくないと煩悶する。

恋人ゼミーラ(アルバーチェの妹)からはアルバーチェの寛大な処置を、反対に妹マンダーネからは父王の復讐としての極刑を懇願されて板挟みになったアルタセルセは、判断をアルタバーノに委ねる(王様のくせに、そこで丸投げするんかい)。アルタバーノは自らの息子に死刑を宣告するが、それは見せかけで裏では王室への反乱を企んでおり、腹心のメガビーゼには、その見返りとして自分の娘ゼミーラをアルタセルセから引き離して彼に嫁がせる約束をしていた。

無実の罪で死刑を宣告されたアルバーチェの運命は? アルタセルセの身の安全とペルシャ王室の存続は? 王室打倒計画の中で仲を引き裂かれた2組の恋人はどうなる? そして、美しい(すぎる)友情で結ばれたアルタセルセとアルバーチェが再び笑い合える日は来るのか?


ナンシー歌劇場は1919年に建てられた、小ぶりで非常に美しいオペラハウス。バロック・オペラを観るのには最適の会場だ。

さて席に着くと、開演前だが舞台には幕が下りておらず、下手に楽屋用の化粧台が置かれて、そこで2人の歌手(ジャルスキーとチェンチッチ)がTシャツ姿でメイク中である。オペラのストーリー全体を劇中劇に見せかけるような、なんとも奇抜な演出(ルーマニア出身のシルヴィウ・プルカレーテによる)。シンフォニアの演奏に続き、ペルシャ王女マンダーネ(チェンチッチ)と、王子(後に王)の親友アルバーチェ(ファジョーリ)の密会シーンから物語が始まり、王の暗殺あり、死刑あり、毒殺未遂あり(上記あらすじ参照)のおどろおどろしくも絢爛豪華なバロック・オペラが展開する。

アルバーチェは伝説的なカストラート、ジョバンニ・カレスティーニのために書かれた役で、ストーリー展開上、重要な役割を果たし、音楽的にも演奏効果の高いアリアを多数与えられている。この役をこなすには相当な技巧と、曲を空虚にしないための音楽性を要するが、ファジョーリは神がかったような歌唱で圧倒的な存在感を示した。とりわけ1幕目最後のアリア「Vo solcando un mar crudel」は、往年のカストラートたちはこんな歌唱をしたのではと幻想を抱かせるような迫力があった。しかも衣裳と振り付けは、まるでカストラートのパロディで、大見得を切って観客の歓声(と失神)を誘導するかのよう。アリアの最後には後ろに控えた黒服の黙役が金粉を雨のように降らせるのだから、あっけにとられる。観客から沢山のブラボー!が飛んだのは、言うまでもない。



タイトルロールのアルタセルセは父王を殺され、親友アルバーチェが犯人として捕らわれるという悩み多い、内省的な役柄。その内面を、ジャルスキーは明瞭かつ流麗なレチタティーヴォで見事に表現していたと思う。透明感のある声質で、まったく崩れたところのない清潔なディクションで歌うジャルスキーは、「いい人」役にぴったり。イタリア語の響きが好きな私は、オペラではアリアにもましてレチタティーヴォの美しさに参ってしまう性質だが、プライベートにこんなレチタティーヴォで語りかけられたらイチコロであろう(そんなチャンスは絶対に来ないが)。

男性歌手が女装して歌うというのはセンセーショナルに報じられるが、今回その籤を引いたのはチェンチッチ(ランディのオペラ「聖アレッシオ」でも主人公の嫁役がはまっていた)とサバドゥス君。チェンチッチは誇り高いマンダーネ姫(ツンデレ?)を、男が女を演じているグロテスクさを感じさせずに歌いあげたのはさすがだ。しなの作り方は、地でなくて演技だと思いたい。新星サバドゥス(1986年生まれ)も、先輩歌手たちにまじって健闘していた。長身で眉毛の濃い男性的な容姿だし、声質はアルトだと思うが、時折りはっとするような女らしい姿を見せるので、なんだかイケナイものを見てしまったような気がした。

ミネンコ演ずるメガビーゼは、王室への反乱を企む一味で、嫌がるゼミーラに言い寄る恋敵でもある損な役柄。そのため、あまり感情移入ができなかったせいか、1幕目では強い印象が残らなかったが、後半になって迫力が出てきた。悪の元締めアルタバーノは、5人のカウンターテナーと対峙し、たった一人でテノールの音色を添えて音楽的色彩感を豊かにする「差し色」みたいな役柄で、セビリア出身の若いテノールのサンチョスはその重責を力一杯果たしていた。ミネンコとサンチョス、そして前述の通りチェンチッチとファジョーリは皆、Parnassus Arts Productionの所属で(CD版のテノール、ダニエル・ベーレも同様)、Parnassusは持ち駒を自在に使ってこのオペラをプロデュースした。幕間のロビーでこの事務所のオーナー兼代表であるジョージ・ラング氏(カウンターテナー・ファンの私たちはFacebookでラング氏の「友達」になって、遠くから声援を送っている)を見かけたが、プロデュース作品の成功に心躍る思いだろう。

この作品はナンシー歌劇場の後、テアター・アン・デア・ウィーン、ローザンヌ歌劇場、パリ・シャンゼリゼ劇場、ケルン歌劇場で演奏会形式の上演が行われる。詳細はこちら

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写真上:ナンシー歌劇場が発表したカーテンコールの様子。
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by bonnjour | 2012-11-07 08:31 | 聴く&観る
お風呂映画
スウェーデンに住んでいる学生時代の友人Sが来週、東京に来るという。「古代ローマ人お風呂設計士の日本映画(題名忘れた)を見たい」というので、一緒に行く約束をした。もちろん、その日本映画とは今ヒットしている「テルマエ・ロマエ」のことだ。古代ローマ時代の浴場設計技師が、ひょんなことから時空を超えて現代の日本にやってきて、その独特のお風呂文化に圧倒されつつ、そこで見聞きしたものを古代ローマに戻って応用し、名声を高めていくというハチャメチャなお話。



これはヤマザキマリの漫画作品の映画化だが、実は私は日本に来るたび単行本を買い求め、全巻(といっても4巻だ)を揃えた。漫画に熱中した学生時代(漫研で下手くそな少女漫画を描いていた。憧れの人は萩尾望都、竹宮惠子、山岸凉子...)から一転して、社会人になってからは漫画から遠ざかっていたが、いきなり昔の熱がぶり返した感じ。笑いたくなると、この本を取り出して一人でニヤニヤしている。海外在住の作者が、浴槽がないのが標準の住環境の中で、風呂好き日本人としてのフラストレーションを発散するために描いた作品、というエピソードにも共感を覚えた。私もデンマークにいた3年間は浴槽のない生活で困り果てた。

さて映画版だが、古代ローマと現代日本をまたにかけたSF的な設定を、主要なキャラクターは日本の俳優を使って実写版で製作するというのに興味をそそられた。それにしても主役の阿部寛選手は顔が濃い。他の役者も、予告編を見る限り、見事にローマ人風に化けている。聞くところによると、海外での公開も続々と決まっているようだ。アートシアター系の日本映画だけでなく、こういう娯楽大作が海外に紹介されるのは、日本のポップカルチャーを知ってもらう意味で意義深いことだと思う。

映画版に先立ち、今年初めにはアニメ版もテレビ放映されているが、それに英語やスペイン語の字幕を付けたものがYouTubeにアップされている。海外のアニメファンが字幕職人をやったのだろうか。動画を勝手にアップされたテレビ局には申し訳ないが、こうやって日本発のコンテンツが草の根式に紹介されていくのは嬉しいことだ。


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by bonnjour | 2012-06-21 01:26 | 聴く&観る
アールデコのグラフィック美を堪能 ― 鹿島茂コレクション2 バルビエ×ラブルール展
2月のフランス&イタリア旅行以来、また放置してしまった当ブログだが、いい加減、ネタがたまってきたので唐突に再開してみる。

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まずは新しいところから。練馬区立美術館で4月8日~6月3日まで開催された「鹿島茂コレクション2 バルビエ×ラブルール展」の最終日に駆け付けた。これは、蔵書狂として名高い仏文学者の鹿島茂氏のコレクションによる、アールデコ期の2人のイラストレーター、ジョルジュ・バルビエ(George Barbier、1882~1932)とジャン=エミール・ラブルール(Jean Émile Laboureur、1877-1943)の作品集だ。「コレクション2」ということは1もあったわけだが、それは昨年開かれた「鹿島茂コレクション1 グランヴィル 19世紀フランス幻想版画」(2011年2月25日~4月3日)で、残念ながら見に行けなかった。

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会場は、西武池袋線の中村橋駅に近い、公園に隣接したのどかな区立美術館。公共の交通機関だと電車とバスを乗り継ぐことになり面倒なので、愛車(自転車)に乗って行く。学生時代、この近所にバイトに通っていたが、来るのはそれ以来。当時は美術館もなかったし、駅周辺の変貌ぶりに驚く。

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ロビーの撮影は可ということだったので、吹き抜けを撮影。今回は1、2階に分かれての展示だ。ともに19世紀末、フランスのナントに生まれた(しかし作風は異なる)2人のアーティストによる挿絵本、版画作品、定期刊行物が、思いのほか多数出品され、大変に充実した企画。

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バルビエの「シェエラザード」(1913)。ディアギレフのロシア・バレエ団のスター、ヴァーツラフ・ニジンスキーと相手役のプリマドンナ、タマラ・カルサヴィナに捧げられたアルバムより。一瞬の動きを捉えた躍動感、画面を斜めに2分する大胆な構図が気持ち良い。この展覧会はラ・フォル・ジュルネとのコラボレーション企画ということになっているのだが、そういえば今年の音楽祭のテーマは「ロシアの祭典」なのだった。

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ラブルールの作風は、打って変わってシンプルかつモダンだ。彼はバルビエより5歳年長で活動期間もかぶるが、これはアーティストとしての方向性の差だろう。上の「アンドロメダ」(1935)では、ユーモラスにもグロテスクな魚たちを前景に、奥には岩礁に鎖でつながれたアンドロメダが立ちつくしている。不思議なリズムを持った、いつまで見ていても飽きない絵だ。ちょっととぼけた味のある彼の作品を大量に見ていたら、なぜか今は亡き滝田ゆう氏の漫画を思い出した。

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売店ではカタログ3,300円也(求龍堂から一般書籍として刊行)も奮発して買ってしまい、大満足であった。ただし、このふたりの作品の、シャープな線や美しい発色は、こうした大量印刷の書籍ではもちろん充分に再現できるものではなく、やはり今回展示された実物の版画や職人技で精緻に作られた挿絵本の迫力には負けるのである。鹿島先生が収集にはまる理由も、理解できるというものだ。
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by bonnjour | 2012-06-03 02:39 | 聴く&観る
世界のウチダが、いまさらながらのグラミー賞をとって
内田光子が今年のグラミー賞・最優秀インストゥルメンタル・ソリスト演奏賞をとったが、おおかたの日本人の反応は「その人、誰?」のようだ。血筋こそ日本人だが、幼少期からヨーロッパ文化の中で育ち、そのままずっと海外で活躍しているピアニストだから、ジャンル的には「外タレ」だし、そもそもクラシックの演奏家なんて、タレント的活動をしている人を除けば一般的知名度はないからね。

でも、数奇な人生(と奇抜なステージ衣裳)で有名になった女流ピアニストと比べて「どっちが上手なの?」という素朴な質問には脱力する。音楽家の活躍の場にはそれぞれの領域があって、数奇女史の場合には、演奏技術とかレパートリーの豊富さといった一般的な判断基準を超越して、コンサートにつめかけた聴衆(いわゆるクラシック・ファンとはちょっと違った層)の心を癒すという魔術(呪術?)の領域に踏み込んでいるのだから、困らせる質問はしないように。

ただ、数奇女史のコンサートの料金は、世界のウチダの来日公演の料金より妙に高いという事実には、「日本の音楽業界は、いったいどうなっとるんだ」と、ちょっとショックを受けてしまったりもする。

それにしても「いまさら感」のある受賞だ。同時に受賞したB’zの松本やジャズの上原ひろみの場合は、これから国際的な知名度がぐんと高くなるというメリットがあるだろうが、すでに大家の内田にグラミー賞を出しても、痛くも痒くもないような気がしないでもない。

夕刊フジでは(といっても通勤電車の網棚から拾って読んだのじゃなくて、オンライン記事)、今年のグラミー賞で日本人の受賞が多かったことについて「スポンサー不足に悩むアメリカの音楽業界が市場として大きな日本に注目しているというオトナの事情」(業界関係者)という、うがった見方も紹介されていた。もっとも内田クラスの演奏家ともなれば、別に日本人枠での受賞ではないだろうが。

さて、彼女がらみでなにか面白い動画はないか、YouTubeをさまよっていたら、バルトリ姐との共演シーンが出てきた。2006年にザルツブルクで行われたムーティ&ウィーン・フィルのモーツァルト生誕250年記念コンサートで、ソリストとして出演した内田とバルトリが、まさに夢の共演でK.505の演奏会用アリア「Ch'io mi scordi di te? (どうしてあなたが忘れられよう)」を歌ったもの。DVDは結局発売されなかったようなので、貴重な映像だ(YouTubeの動画はクラシック専門TV局 Mezzoで放映されたものの録画)。声楽界とピアノ界をそれぞれ代表する顔芸婦人の競演という点でも、グイグイ引き込まれるエキサイティングな演奏である。



ビデオを見るとわかるとおり、この作品はピアノ(作曲当時はもちろんフォルテピアノ)のオブリガートを伴っていて、まるで歌を伴ったピアノ協奏曲のようだ。あるときは歌にひっそりと寄り添い、あるときは歌とともに激情をたぎらせるピアノ・パートは表情に富んでいて、ピアニストと歌手のかけあいにゾクゾクする。

                                         ↓ この辺からゾクゾク・・・
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おまけ。20代はじめの貴重な映像 ↓ 


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by bonnjour | 2011-02-18 05:54 | 聴く&観る
無くしてしまった。どうしよう。
ちょくちょく訪問させていただいているロンドン在住dognorahさんのブログの最新記事にロイヤル・オペラハウスで6月4日に上演された「フィガロの結婚」のレポが載っているが、それを読んでバルバリーナ(ソプラノ)が第4幕の冒頭で歌うカヴァティーナ「L'ho perduta, me meschina(無くしてしまった。どうしよう)」を思い出した。

スザンナからの手紙(実は好色なアルマヴィーヴァ伯爵をこらしめるために仕組まれた策略)の封を止めるのに使われていたピンを本人に返すよう伯爵に言われた少女バルバリーナは暗闇の中でピンをなくし、途方に暮れる。そんな彼女が取り乱して歌うのが、このカヴァティーナだ。「フィガロ」の中で唯一、最初から最後まで短調(へ短調)で書かれている曲で、わずか36小節と短いながら他のアリアとは異質な、印象に強く残る歌だ。

L'ho perduta... me meschina...
ah, chi sa dove sarà?
Non la trovo... E mia cugina...
e il padron ... cosa dirà?

無くしてしまったの。
どうしよう、一体どこにいっちゃんたんだろう。
ああ、見つからないわ。
従姉(スザンナ)は、そしてお殿様(伯爵)は
なんて言うかしら。


ある研究によれば、ピンで封印されたスザンナの手紙は彼女の処女性の象徴であり、伯爵との密会を承諾する手紙(それはスザンナと伯爵夫人が仕掛けた罠なのだが)の開封は、すなわち彼女の処女を奪うことを意味する。伯爵は手紙を開ける際にピンで指を刺す。処女のスザンナでなく、それを奪おうとたくらむ伯爵が「出血」してしまう皮肉。そして封印のピンを無くすことはスザンナの処女喪失を象徴するとともに、伯爵の愛を受け入れるならなんでも望むものを与えてやろうと誘惑されているバルバリーナ自身の処女性の危機をも意味しているという。(Zemach, Eddy and Tamara Balter. "The Structure of Irony and How it Functions in Music." Philosophers on Music: Experience, Meaning, and Work. Ed. Kathleen Stock. Oxford and New York: Oxford University Press, 2007. 189-90. Print.)

このオペラは領主の初夜権をめぐる伯爵と庶民カップル(フィガロとスザンナ)の攻防戦がテーマになっていることを考えると、なるほどとうなずける。たかがありふれたピンをなくしただけでバルバリーナがそこまで取り乱す理由がハッキリするというものだ。

古楽界の実力派アイドル、ヌリア・リアル嬢 (´Д`;)ハァハァ の歌唱で聴いてみよう。清純でいてしっかりと成熟した声が素晴らしい。



Le Nozze di Figaro (Mozart):"L'ho perduta" (Barbarina)
Nuria Rial (S)
Rene Jacobs (Con) & Concerto Köln


この歌を私が最初に聴いたのはオペラでなく、イタリアのタヴィアーニ兄弟の映画「Kaos(邦題:カオス・シチリア物語)」(1984年)だった。これはイタリアの大作家ルイジ・ピランデッロの、シチリアの土俗的な香りがする小説をもとにしたオムニバス映画で、最終章に作家自身が登場し(演じるのは、禿げ頭フェチの私としてはたまらないイタリアの名優オメロ・アントヌッティ)、久しぶりに訪れた生家で亡き母の霊と対話する。その母が少女時代を回想するシーンに非常に印象的に使われていたのがこの歌だ。



母の亡霊は、功成り遂げたものの人生に疲れた息子に「もはや見られなくなった者の眼でものを見るようにしなさい。そのほうが辛いけれど、物事がずっと美しく、尊いものに思えてくるのよ」と諭し、子供時代の思い出を話しはじめる。

少女だった母は、亡命したその父を追って家族でシチリアからマルタ島へ逃避行する途中、ある島で小休止した。子供たちは真っ白い砂と軽石でできた山から、真下にある紺碧の海めがけて駆け下りていく。そこでバルバリーナの歌が流れる。辛い亡命の旅の中でも子供たちは楽しみを見つけ、目の前には希望にあふれた未来を象徴するような大海が広がっている。

日本でこの映画が公開された当時(1985年)、子供たちが白い砂山をぴょんぴょん駆け下りるシーンがバルバリーナのカヴァティーナとともに予告編に使われて盛んに流されたので、私のように映画を通じてこの歌を知った人も多いのではないか。亡き母親の少女時代の回想に「無くしてしまったの」という歌が流れるのは、まことに興味深い。イタリア映画だから、本国の観客は「L'ho perduta... me meschina...」というイタリア語の歌詞をダイレクトに理解したはずだ。

↓ 心の中の亡き母(左)と対話するピランデッロ役のアントヌッティ様。なにはともあれ彼の禿げ頭に萌える。
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さて、この曲をヌリアちゃんのように歌ってみたい人には、こちらで提供されている楽譜と伴奏カラオケ(とてもチープな打ち込みだけど)が便利だ。楽譜の表示およびカラオケの演奏には、はじめにSibelius Scorchという無料のブラウザ・プラグインをインストールする必要がある。新モーツァルト全集オンライン版のスコア(著作権法上の「公正利用」原則に基づく個人利用目的に限定してDLが可能)はこちらから。
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by bonnjour | 2010-06-07 23:34 | 聴く&観る
サヴァールの「Orient - Occident (1200-1700)」
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先週のマドリッド旅行で訪れたトレドの街は、中世にキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の各文化が交差した土地で、科学、哲学、神学などの文献がアラビア語からラテン語に訳され、その後のヨーロッパの文化と思想に大きな貢献をした。イスラムとキリスト教の建築様式の融合であるムデハル様式の建物を見上げながら、私は東と西が出会った中世に思いを馳せた。

と、恰好つけた前置きはこれくらいにして、スペインはカタルーニャ地方出身のヴィオラ・ダ・ガンバ奏者&指揮者ジョルディ・サヴァールがアフガニスタン、イスラエル、モロッコ、ギリシャの民族楽器奏者を迎えて制作したディスク「Orient - Occident (1200-1700)」を聴いた。

これがワクワクする面白さ。カテゴリー的には古楽とワールド・ミュージックの接点に位置するのだろうが、そんな区分けは音楽そのものの魅力の前には意味がない。「キリスト教、ユダヤ教、イスラム教スペインの器楽曲と中世イタリア、モロッコ、イスラエル、ペルシャ、アフガニスタン、オスマン帝国の器楽曲の対話」というサブタイトルが示すように、かつて盛んな文化交流が繰り広げられた地中海を取り巻く西洋(スペイン、イタリア)とオリエントの世界の音楽を1枚のディスクにまとめ、その共通性を浮き彫りにしたアルバムだ。

収録曲は大半が初めて聴く作品だった。ウードやラバーブなどの中東の弦楽器や打弦楽器のサントゥールがジャラジャラ鳴り、太鼓系もドンドコやって大変に賑やかながら、底知れない哀愁をおびた曲調の作品が多い。なかには14世紀のエスタンピー(舞曲)「トリスタンの嘆き」など、耳に馴染んだ曲も出てきて、そのときは旧知の友人に出くわしたみたいな気がした。今日の我が家のおかずはたまたまクスクス(北アフリカ発祥の料理)だけど、そんなエスニック系の食事にもぴったりの音楽(結局はそこにオチるか)。

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Orient-Occident, 1200-1700

こちらで試聴が可能。

01. Makam Rast "Murass'a" Usul Düyek (MSS. De Kantemiroglu)
02. Work(s)/Ductia (Cantigas 248-353)
03. La una Yo Nací (Sarajevo)
04. Alba (Castelló de La Plana)
05. Danse de l'Âme (Maroc)
06. Istampitta: La Manfredina (14th Century)
07. Laïli Djân (Afghanistan Perse)
08. Istampitta: In Pro (14th Century)
09. Danza del Viento
10. Istampitta: Saltarello 1 (14th Century)
11. Chahamezrab (Perse)
12. Danza de Las Espadas (Galicia, 14th Century)
13. Makam Nikriz Üsul Berevsân (MSS. De Kantemiroglu) L
14. Istampitta: Saltarello 2 (14th Century)
15. Ya Nabat Elrichan - Magam Lami (Judeo-Iraq)
16. Cantiga 105/Rotundellus
17. Makam Rast Semâ'i (MSS. De Kantemiroglu)
18. Istampitta: Lamento di Tristano (14th Century)
19. Molâ Mâmad Djân (Afganistan (Perse)
20. Work(s)/Saltarello (Cantigas 77-119)
21. Makam 'Uzäl Sakil "Turna" (MSS. De Kantemiroglu)

Musicians:
Hesperion XXI
Khaled Arman
Osman Arman
Yair Dalal
Dirss El Maloumi
Pedro Estevan
Siar Hashimi
Dimitris Psonis
Jordi Savall, conductor



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by bonnjour | 2010-06-04 23:24 | 聴く&観る