B的日常
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ドイツ、デンマーク、フランス(一瞬)と、流浪の生活を約10年。昨年秋にポーランドに流れ着く。音楽、美術、風景、食べ物など、美しいものや変わったものを追いかけて味わうのが好き。
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美しいものや変わったもの、美味しいものを追いかけるのが好きです。日々の生活で接した、そうしたものへの感想を綴っていきます。過去の記事であってもコメントは大歓迎です。メールはこちらにどうぞ。
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わたしが泣くと獣と石も


Sigismondo d'India: "Piangono al pianger mio"
- musica sopra il basso della Romanesca


Piangono al pianger mio le fere, e i sassi
A miei caldi sospir traggon sospiri;
L'aer d'intorno nubiloso fassi
Mosso anch'egli à pietà de' miei martiri.
Ovunque io volgo, ovunque giro i passi
Par che di me si pianga, e si sospiri;
Par che dica ciascun, mosso al mio duolo,
Che fai tu qui, meschin, doglioso e solo?

わたしが泣くと獣と石も

わたしが泣くと獣も泣く。
石たちはわたしの熱いため息をあわれみ、ため息をつく。
わたしのあまりの嘆きに同情し、まわりの空気は霞と化す。
どこに赴こうと、どこに足を向けようと、
わたしは涙とため息にくれるばかり。
あらゆる生き物が、わたしをあわれんでこう語りかけているようだ。
「悲しみにくれる孤独で哀れなおまえよ、そこで何をしているのだ」

本日のタイトルだけ見ると何のこっちゃと思うが、モンテヴェルディやジェズアルドの同時代人、ルネサンス末から初期バロックの過渡期に活躍したイタリアの作曲家、シジズモンド・ディンディア(Sigismondo d'India: c.1582 - 1629)作曲の、モノディ様式の嘆きの歌である。現代人には過剰に感傷的ともうつる涙目な歌詞を書いたのは、世界初のオペラ「ダフネ」の台本作者でもあるオッタヴィオ・リヌッチーニ(Ottavio Rinuccini: 1562 - 1621)。

musica sopra il basso della Romanesca(ロマネスカ形式の低音の上で奏でられる音楽)という副題のとおり、当時よく使われたロマネスカ(下記の譜例)という下降形の固執低音(basso ostinato)の上で、メロディが次々と新しい装飾に伴われて変化していく。

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フィリップ・ジャルスキーが歌っている上記の動画では、”martiri”(苦痛)、”sospiri” (ため息)といった苦しみを想起させる言葉での、すすり泣くような表現が出色である。それと同時に、抑制のきいた彼の抒情性は、ともすれば大げさで感情過多になりがちなこの曲に真実味を与えている。

と前置きが長くなったところで、今日の本題(笑)。この秋にジャルスキーは古楽アンサンブルのラルペッジャータ(指揮:クリスティーナ・プルハル)とともに来日し、モンテヴェルディ作品を歌う。プログラムは、今年リリースされたアルバム「モンテヴェルディ 愛の劇場」を中心にしたものになる模様。どうやらチケット売れ行きが好調のようで、東京では追加公演も発表された。この機会にぜひ、旬の歌手、ジャルスキーをお見逃しなく(って私は別に事務所のまわし者じゃないけど)。詳細およびチケット購入はこちら

【フィリップ・ジャルスキー&ラルペッジャータ 来日公演日程】
11月 1日(日)19:00 サントリーホール ブルーローズ(東京) *追加公演
11月 5日(木)19:00 王子ホール (東京)
11月 7日(土)19:00 電気文化会館 ザ・コンサートホール(名古屋)
11月10日(火)19:00 サンケイホールブリーゼ(大阪)

え、私ですか?もちろん、東京公演に駆け付けます。
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by bonnjour | 2009-07-06 04:15 | 聴く&観る
クライバーン国際ピアノコンクールの「から騒ぎ」
米国のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで日本人の辻井伸行さん(20)が優勝、というニュースが日本のマスコミで大きく報じられている。彼が全盲であることがことのほか強調されてしまうのは、ニュース・バリューの点からは仕方ないかもしれないが、この快挙がどのニュースを見ても「涙の感動物語」風に取り上げられることに違和感を覚える。

全盲であるハンデを抱えながらピアニストになる教育を受け、国際コンクールに優勝するまでには想像を絶する努力と苦労があったに違いないが、彼がコンクールで優勝したのは障害の有無に関係なく、純粋に才能と音楽性が評価された結果のはずなのだから、報道で全盲であることばかりに注目するのは失礼だろう。

さて、今回の選考結果に関して、米国の批評家ベンジャミン・イヴリーがウォールストリート・ジャーナルに寄せた記事「What Was the Jury Thinking? 」は、日本のお祭り騒ぎに水を差すような内容だ。彼は「迷宮のような音楽コンクールの世界では、その透明性に疑問が残る事態が起こる。6月7日に発表された第13回クライバーン国際ピアノコンクールの結果が、いい例だ」と書きだす。

そして「音楽的にもっとも成熟し感性が豊かな中国出身のDi Wuが優勝を逃した一方、一筋縄ではいかない作品を弾いて深みのなさを露呈した学生レベルの演奏者ノブユキ・ツジイと、才能があることは明らかだが19歳になったばかりで音楽家としては未完成のHaochen Zhangが優勝したのは、きわめてショッキングな出来事である」と言い切る。さらに「多くの報道が、ツジイが全盲で音楽を耳で覚えたことにスポットを当てているが、純粋に音楽に関していえば」と断ったうえで「コンクールで弾いたラフマニノフのピアノ協奏曲第2番は惨憺たる結果だった。指揮者の合図が見えないソリストは聴衆の前で協奏曲を弾くべきではない。それが作曲家に対する尊敬というものだろう」と切って捨てる。

厳しい意見というしかないが、ファイナリストたちの現時点での完成度について率直な見解を述べたこのレビューは、健全な音楽ジャーナリズムのあり方を示していると思う。マスコミが障害のある人を取り上げるとき、決して悪いことは言わず手放しで褒めまくる、というのは「障害者は弱く、保護されるべき存在」という偏見に基づいたある種の差別だ。同じく全盲の音楽家であるヴァイオリニストの和波孝禧氏の「『全盲の』という肩書きなしでも通用する演奏をしているはずなのに、なぜ『一人の音楽家』として理解してくれないのだろう」という言葉が胸に突き刺さる。

ともあれ辻井さんが今後、本物の芸術家として活躍していくためには、このような辛口の批評を跳ね返すだけの実力と実績を示さなければならない。レパートリーの構築にしても、目が見えないハンデを強みに転じるような、彼ならではの豊かな想像力と内的世界を活かせる作品を選んでいかねばなるまい。彼を特別扱いするマスコミや儲け主義に走る音楽ビジネス関係者が、その才能をスポイルしなければよいのだが。

このコンクールの優勝者には今後3年間のコンサート・ツアー契約が与えられるというのも不安材料だ。まだ20歳の彼にとって、音楽家として成長する大事な時期にコンサート・ツアーに引き回され、勉強がおろそかになるのは、長い目でみて決して好ましいことではないだろう。

クライバーン・コンクールの優勝者で唯一大成したピアニストといえるラドゥ・ルプーは、優勝後のコンサート契約をすべてキャンセルしてさらなる研鑽を積んだそうだ。コンクールは登竜門であってゴールではない。全世界の人から喝采を浴びる舞台の魅力は抗いがたいものがあるだろうが、その誘惑を断ち切って自らの芸術をさらなる高みにもっていくことのできる者が真の勝者になるだろう。

↓ 辻井さんの演奏の動画は色々なところで取り上げられているので、あえて同じコンテストの優勝者の大先輩、ラドゥ・ルプーのモーツアルトを貼り付けておく。


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by bonnjour | 2009-06-10 01:01 | 聴く&観る
リラの花が満開
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アパートの庭にあるリラの木が満開の花をつけている。残念ながら私たちの部屋にまでは香りが届かないが、窓から匂い立つような紫色の花を見下ろしているだけで、高貴な香りに満たされる感じがする。

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リラ(英語名:ライラック)はモクセイ科の落葉樹で、春に香りの高い紫色や白色の花をつける。寒冷地でよく育つ木でヨーロッパでは春を告げる花として親しまれているが、日本ではヨーロッパと気候の似ている札幌のライラック並木が有名だ。

リラといえば、エルネスト・ショーソン(1855-1899)の作品に「Le temps des lilas」(リラの花咲く頃)という歌曲がある。友人でもあった詩人モーリス・ブショール(1855-1929)の詩に曲をつけた連作「Poème de l'amour et de la mer」(愛と海の詩)Op.19の第2部「La mort de l'amour」(愛の死)に収められている。「愛の死」というタイトルにふさわしく、「花咲くリラとバラの日はもう来ない。かつての春は輝いていたのに我が愛の花はしおれ、君のくちづけにも目覚めない。花咲くリラとバラの日は我が恋とともに死ぬ」というような喪失の歌だ。



Ernest Chausson "Le Temps De Lilas"
  Philippe Jaroussky, countertenor
  Jérôme Ducros, piano
  Live recording at Théâtre de la Monnaie, Bruxelles
  April 19, 2009

スライドショーの絵画はすべてジェームズ・ホイッスラー(1834-1903)の作品。ショーソンとほぼ同時代人というだけで特に関係はないが、色調や空気感がこの曲にマッチしていなくもない。作品のタイトルはスライドショーの順に下記の通り:

 ◆ Symphonie in White No. 2, The Little White Girl (1864)
 ◆ Nocturne: Blue and Silver - Chelsea (1871)
 ◆ Symphony in White no 1 (The White Girl) (1862)
 ◆ Nocturne in Black and Gold, The Falling Rocket (c. 1874 - 1875)
 ◆ At the Piano (1858-1859)
 ◆ Nocturne in Blue and Gold: Old Battersea Bridge (c. 1872-1875)
 ◆ Nocturne: Blue and Silver - Cremorne Lights (1872)
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by bonnjour | 2009-05-18 09:36 | 聴く&観る
アン・デア・ヴィーン劇場 & ナンシー歌劇場の共同制作「メサイア」
今年3月から4月にかけて、アン・デア・ヴィーン劇場とフランスのナンシー歌劇場が共同制作でヘンデルの「メサイア」を演出付きでやっていたというのを、今日になって知った(情報遅すぎ?)。演出はクラウス・グート。ジャン=クリストフ・スピノジ指揮のアンサンブル・マテウスの演奏で、ソリストは次の通り。

【ウィーン公演】
Soprano: Susan Gritton
Soprano: Cornelia Horak
Altus: Bejun Mehta
Tenor: Richard Croft
Bass: Florian Boesch

【ナンシー公演】
Soprano: Veronica Cangemi
Soprano: Cornelia Horak
Altus: Max Emanuel Cencic
Tenor: Sébastien Droy
Bass: Nigel Smith

その中から、カウンターテナーのベジュン・メータが歌うアルト・ソロ「He was despised(彼は侮られて)」が、↓ こちら。アン・デア・ヴィーン劇場での公演の録画だ。



見ての通り、舞台を現代社会に読み替えた演出だが、なんというか、宗教曲としてはぶっ飛んでいるところが面白い。オラトリオも演出次第ではこんな風に料理できることが分かった。制作の一端を担ったアン・デア・ヴィーン劇場は、2006年にミュージカル専門館からオペラハウスにリニューアルしてから、格式高い国立歌劇場、庶民的なフォルクスオーパーに次ぐ第3のオペラ劇場として、独特の色を出そうとしているようだ。

指揮のスピノジのインタビューが、ナンシー歌劇場のサイトで配信されている。
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by bonnjour | 2009-05-13 11:38 | 聴く&観る
神秘的な障壁
先日からフランスのバロック音楽が、自分の中でちょっとしたブームになっている。そこで今日はフランソワ・クープランの「クラブサン曲集」第6組曲に収められた「Les Baricades Mistérieuses(神秘的な障壁)」。この作品は、曲そのものの魅力に加えて謎めいた題名が人々の興味をひくせいか、クープランのクラブサン(チェンバロ)作品の中でも最も有名な曲のひとつになっている。

IMSLPのサイトでこの曲の楽譜(パブリックドメイン)が無料ダウンロードできる(pdfファイルのpp. 123~125)。楽譜を見るとよく分かるが、曲全体に執拗に流れる掛留音と(それだけに、自分で弾こうとすると指が思うように動いてくれないのがトホホ)、それを支える低声部の動きが印象的で、それが「クセになる」効果を生み出しているようだ。
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イギリスの音楽学者ウィルフリッド・メラーズによると、この曲はクープラン一流の「音楽の冗談」で、継続的な掛留音がハーモニーを「妨げて」いるので「障壁」という名を付けたのではないか、という(Wilfrid Mellers, François Couperin and the French Classical Tradition, New York, Roy Publishers, 1951, p. 358)。しかし、この題名が本当は何を意味するのか、確かなことは作曲者本人にしか分からない。むしろ、曲名通りミステリアスなままにしておいたほうが余韻があるというものだ。

1989年にエイズのため38歳の若さで亡くなった鍵盤奏者スコット・ロス(Scott Ross、1951 - 1989)の演奏が素晴らしい。



それにしても80年代末~90年代初頭は、スコット・ロスの他にもロバート・メイプルソープ('89年没)、キース・ヘリング('90年没)、フレディ・マーキュリー('91年没)など、才能にあふれた若いアーチストたちが本当にバタバタという感じでエイズに斃れていった。その後、効果的な治療薬が次々と登場し、今ではエイズは死病でなく、早期に治療を開始すれば長期生存が可能な一種の慢性疾患として捉えられるようになったけれど、彼らがもう少し後にこの病に罹患していれば生き延びて、さらに素晴らしい活躍をしただろうにと残念でならない。
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by bonnjour | 2009-05-10 22:55 | 聴く&観る
当世風Air de cour
16世紀から17世紀のフランスで流行した宮廷歌曲、Air de cour(エール・ド・クール)。

視覚化するとしたら、こんな感じ?(ちょっと時代が下るけど)

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↑ Jean-Antoine Watteau (1684-1721)
La Surprise, ca. 1718

エール・ド・クールの代表的な作曲家、ミシェル・ランベール(Michel Lambert:1610 - 1696)作の「Vos mépris chaque jour(あなたのさげすみは毎日)」。歌っているのはルネ・ヤーコプス。微妙な揺らぎのある歌唱が妙にセクシーだ。



さて、こちらは当世風バージョン。ゴダール作品の常連だった女優、アンナ・カリーナに似た風貌の(あるいはタレントの「ベッキー」似の)この女性は、同じく「Vos mépris chaque jour」を歌いながら手紙を書いていたかと思えば、タロットを取り出して占いを始める。



フランスのヴェルサイユ・バロック音楽センターのWebサイトでは、1602年から1660年頃までのエール・ド・クールのオンライン・カタログが公開されており、書誌情報や歌詞のほか、作品によってはPDF化された楽譜も閲覧できる。これはスゴイ。
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by bonnjour | 2009-05-07 11:23 | 聴く&観る
奥様お手をどうぞ
風薫る5月。その風に乗って新型インフルエンザが音もなく忍び寄ってくるのは気がかりだが、ともかく爽やかな空気とあふれるばかりの陽光に気持ちが晴れやかになる季節だ。

c0163963_1222226.jpgこんな季節には軽やかな流行歌がぴったり、ということで本日聴くのは今から90年ほど前にドイツで作曲され、マレーネ・ディートリヒ主演の映画(写真)の主題歌にもなり大流行したタンゴの名曲「Ich küsse Ihre Hand, Madame」(邦題:奥様お手をどうぞ)。邦題は慎ましやかだが、原題は「奥様、貴女の手に接吻します」というわけで、人妻に恋い焦がれる青年の切ない心を歌ったもの。

ヨッヘン・コヴァルスキが歌ったバージョンがNMLで聴ける。成熟した大人の女性を思わせるカウンターテナー・ボイスが人妻に恋する青年の気持ちを歌うところに、ちょっとした倒錯を感じる(そこが好き)。

Ich küsse Ihre Hand, Madame

作詞:Fritz Rotter
作曲:Ralph Erwin

Madame ich lieb Sie
seit vielen wochen
wir haben manchmal
auch davon gesprochen
was nützt das alles
mein pech dabei ist
das ach ihr herzchen
leider nicht mehr frei ist
ihr blick gebietet
mir sei still
doch träumen darf
ich was ich will

ich küsse ihre hand madame
und träum es wär' ihr mund
ich bin ja so galant madame
doch das hat seinen grund
hab ich erst ihr vertrauen madame
und ihre sympathie
wenn sie erst auf mich baut madame
ja dann sie werden schauen madame
küss ich statt ihrer hand madame
nur ihren roten mund

es ist ja möglich
wenns wieder mai wird
das dann ihr herzchen
endlich wieder frei wird
es gibt noch eine lösung
um mich zu heilen
wenn sie ihr herzchen
ausnahmsweise teilen
wenn erst mein mund
den ihren fand
sag ich nichtmehr
formell galant

やさしいその手に 触れもすれば
心はおののき 夢さながら
甘い口づけを 許したまえ
燃える恋の火に この身を灼くとき
切なる願いを 聞きたまえよ

かたときも忘れえぬ なよかなきみの姿
望みなきはかなさに 嘆きはひとしお深き
命を捧げて 悔いなきわが恋


↓ こちらはドイツの偉大なリリック・テノール、フリッツ・ヴンダーリヒが歌ったバージョン。甘い声、端正な歌いぶりに、マダムでなくても心を動かされてしまうのであった。



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by bonnjour | 2009-05-05 00:33 | 聴く&観る
「平凡な主婦」が間男をする映画 2題
私が贔屓にしている某男性アーチスト(特に名を秘す)への一問一答というのが雑誌に載っていて*、「好きな映画は?」という問いに「クリント・イーストウッドの『マディソン郡の橋』」と答えていた。イーストウッドが製作・監督・主演し、相手役には演技派のメリル・ストリープを得て1995年の公開時には観客の紅涙を大いに絞ったヒット作だが、公開後少し経ってからビデオで見たときに、なんだか無性に腹の立つ作品だったので、これを「好きな映画」に挙げている彼に、ちょっとガッカリした。
* Thanks to Ciel-san

なんで腹が立ったのか分析してみると、主人公二人(イーストウッド演じる孤独なカメラマンと、ストリープの平凡な田舎の主婦)の身勝手さが鼻についたのだ。ストーリーは簡単にいうと「1965年、アメリカの田舎町に橋の撮影にやってきたカメラマン(ギャラの高い「ナショナル・ジオグラフィック」の専属だ、イェイ!)と、小さな農場の主婦(芸達者なストリープの演じる中年女性の現実感・存在感は、確かにすごい)が出会って恋に落ちる。狂おしいような4日間を二人だけで過ごした後、二人はそれぞれの生活に戻っていくが、4日間の美しい思い出を一生心に秘めたまま死んでいった」というもの。
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カメラマン(その名をロバート・キンケイドという)は、社会に適さず、いつも心の中に孤独を抱えたアーチスティックな人間として描かれる。一方、ストリープ演じる主婦(フランチェスカ)はイタリア出身で、戦後進駐軍としてやってきたアメリカ兵と結婚して米国に渡った「戦争花嫁」という設定だ。

この「イタリア出身の戦争花嫁」というのがこの作品のキーワードだと私は思っている。美的センスに優れたイタリア人の彼女が、戦後の混乱の中で進駐軍の野暮なアメリカ兵と知り合い結婚する。そこに、敗戦国の貧乏な生活を逃れて豊かな米国に渡るという打算はなかったのか?夫は善良な人間だが、芸術を解さないがさつなタイプで、そんな夫には特に不満もないが、ものすごく愛しているというわけでもない。それに、外国出身の彼女にとって、保守的な田舎町は孤独を感じる場所かもしれない。子供たちを育てながら、平凡な生活を淡々と送る彼女の前に現われたのが、同じような孤独を抱えた芸術家のキンケイドだったというわけ。夫なら乱暴に閉めるドアを、キンケイドがそっと閉めるデリケートさにフランチェスカがうっとりとするところなど、描写が細かいと思う。こういうタイプの人間は、ベッドの中でも同様のデリケートさを発揮する。

しかし、待て。キンケイドが素敵なのは、彼が特定の女性にコミットせず、旅から旅の生活を送る芸術家肌の人間だからだ。地に足をつけて一生懸命に働き、妻と子供を養っている農場主のフランチェスカの夫と比較するのは酷というものだ。スリリングな人生と安定した生活は両立しない。

実はこの映画で私が一番共感を感じるのは、妻に間男をされてしまったフランチェスカの夫だ。彼はしごくまっとうに、そして愚直に「良き夫、良き父」という期待される役割を果たし、自分なりのやり方で妻を大切にしてきたのに、その妻は自分のいない間に流れ者の男と不倫をして、その思い出を一生胸に秘めたまま自分との家庭生活を続けたのだ。なんたる欺瞞。なんたる裏切り。だから、この映画の身勝手さに腹が立ち、どうしても好きになれない。

さて話は変わり、「平凡な主婦が行きずりの男と束の間の情事を持つ」という同様のプロットで、私がとても好きな映画がある。それはイタリアのエットーレ・スコラが監督した「特別な一日(Una giornata particolare)」(1977年)で、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニという往年のイタリア映画ゴールデン・コンビが共演している(なんと共演9作目だとか)。



こちらのストーリーは一行に要約すると「第二次世界大戦前夜のローマ、ヒットラーがムッソリーニを訪問した『特別な一日』に、反ファシストの男と平凡な主婦が体験した一日だけの恋」となる。

ローレン演じるアントニエッタは夫と6人の子供たちとともにローマのアパートに住む、家事と子育てに追われる主婦で、ムッソリーニの信奉者である夫は無学な彼女を馬鹿にして女教師の愛人を作り、あまり家庭を顧みない。そんな父親の影響か、子供たちも母親を尊敬していないようだ。1938年のある日、ドイツで権力を握っていたヒットラーがローマにいるムッソリーニを訪問することになり、市民のほとんどは式典に参加するために広場に出かけていく。家族を送り出し、一人残って家事を片付けていたアントニエッタだが、ペットの九官鳥が逃げ出してしまい、その鳥を追って行きついたのはアパートの隣人、ガブリエレ(マストロヤンニ)の部屋だった。

知的で不思議な雰囲気を持つガブリエレに心のときめきを感じたアントニエッタ。一度はそんな自分を恥じて自室に逃げ帰った彼女だが、紆余曲折あって二人は束の間の情事を持つことになる。しかしガブリエレは反ファシスト主義のゲイで、その性的指向や主義主張が原因で仕事をクビになり、今は官憲にマークされている身。流刑になったゲイの恋人の身を案じる彼だったが、この特別な一日が終わった晩に、彼自身も追放処分となって連行されていく。事情を知らないアントニエッタは、その晩、昼間に起こった信じられないような出来事を夢見心地で反芻している。窓の外には、夜の闇にまぎれて連行されていくガブリエレの姿があった。

誰もが浮かれてヒットラーとムッソリーニの出席する式典に出かけた「特別な一日」に、あえてアパートに残っていた二人には、主流から外れた人間という共通点がある。反ファシスト主義でゲイという、二重のマイノリティであるガブリエレと、男性至上主義の身勝手な夫に軽んじられ誰からも感謝されない主婦のアントニエッタは、置かれた立場は違うといえ、世間からさげすまれた弱者同士だ。その二人が心を通わせて、ついには肉体的に結ばれるというのは説得力がある。しかし、初めて感じた女としての喜びに全身が紅潮しているアントニエッタと、ゲイでありながら女性と関係が持てる自分に驚きつつ複雑な思いのガブリエレの間には、深い断絶が存在する。このあたりが、人間の本質をつきつめようとするイタリア映画ならではの視点だと思う。また、イタリアがファシズムの狂気に巻き込まれていく前夜という歴史的な舞台設定も効果を上げている。

身も蓋もない言い方をしたら「平凡な主婦が間男をする」という共通点を持った、米国およびイタリア産の上記2つの映画だが、どうしてもエットーレ・スコラ作品のほうに軍配を上げたくなるのは、私がイタリア贔屓だからだろうか。
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by bonnjour | 2009-04-17 21:02 | 聴く&観る
ジェズアルドの「聖土曜日のためのレスポンソリウム」
今週は聖週間にちなんだ宗教曲をあれこれと聴いてきたが、明日の復活祭を前に聖週間も大詰め。トリを飾る作曲家はこの人しかいないでしょう、ということでご登場願うのは、この方である。
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ヴェノーサ公 ドン・カルロ・ジェズアルド (1566 ? - 1613)。イタリアの名門貴族の家に生まれたお殿様だ。彼の作品に特徴的な大胆な半音階進行と不協和音は、はるか後にやってくる後期ロマン派を思わせるところがあり、彼の前にも直後にも、似た作風の作曲家は存在しなかった。音楽史上の突然変異といえるかもしれない。

そのきわめて個性的な作風もさることながら、彼を有名にしたのは「殺人者」という、スキャンダラスなもう一つの顔だ。政略結婚した妻は絶世の美女で浮気者。夫の目を盗んで他の男と情事を重ねていたのがついに露見し、ジェズアルドは浮気の現場に乗り込んで、妻と情夫を惨殺したのである。この殺人自体は、当時のイタリア貴族社会では名誉を守る行為として容認されていたというから驚く。しかし彼の場合、単独でなく助っ人を連れて乗り込んでいったこと、惨殺した二人の遺体をさらしものにしたこと、妻の生んだ子供の父親は浮気相手でないかと疑い、幼いその子まで殺してしまったこと等で、世間の非難を浴びた。とはいえ貴族の彼は罪に問われることもなく、身柄は自由なままだった。

この異常な事件によって彼は後半生を孤独と罪悪感の中で過ごすことになる。それが影を落としているせいか、彼が数多く作曲したマドリガーレでは「愛」「死」「苦痛」「恍惚」といった両極端な言葉が好んで使われ、聴く者を不安にさせるような不協和音や半音階進行が登場する。

さて、前置きはこのくらいにして肝心の「聖土曜日のためのレスポンソリウム」に移ろう。この作品は、彼の死の2年前、1611年に出版された「聖週間の聖務日課のためのレスポンソリウム集」に収められている。「羊の如く屠り場へ曳かれて」~「主は葬られ」という曲名をみればわかるように、イエスの処刑から埋葬までの受難が描かれている。宗教曲という枠組みのせいか、マドリガーレ作品でみられるような極端な感情の動きは影をひそめているものの、不協和音や半音階進行による彼の語法は健在で、それが劇的な効果をもたらしている。

私が聴いたのはGimellレーベルの、タリス・スコラーズによる演奏で、20年近く前、ジェズアルドのマドリガーレにはまっていた頃に購入したもの(下の写真)。当時はマドリガーレ作者であるジェズアルドに夢中で、宗教曲のディスクはおまけみたいな気持ちで買った。しかし今回、あらためてこの曲の本来のセッティングである聖週間に聴くと、この作品の悲劇性がいっそうの迫力で伝わってくるような気がする。

ところでこのディスクのジャケットに、もう一人の「殺人者にして芸術家」であるカラヴァッジオの作品(キリストの埋葬)が起用されているのは意図的なものだろうか?

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Carlo Gesualdo: Tenebrae Responsories for Holy Saturday
The Tallis Scholars
こちらのサイトで試聴が可能。
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by bonnjour | 2009-04-11 01:58 | 聴く&観る
聖金曜日:ゼレンカの「聖週間のための哀歌」
今日はイエス・キリストの受難と死を記念する「聖金曜日」。一年でもっとも厳かとされる日で、カトリック教徒は断食を行なう。といっても肉を食べない「小斎」と、食事量を普段より減らす「大斎」を実行するだけで、胃袋には何かしら入っているのが、日の出から日没まで水さえ飲めないイスラムのラマダンとは違うところだ。こんな日には気の利いた魚料理でも作ればいいのだが、あいにく昨日からの連休で店はすべて閉まっており、買い置きの魚介類といえば毎度おなじみの冷凍の鮭しかない。魚料理はあきらめてサラダ2種と素うどん(鰹節のダシであっさり)という質素なメニューにする。うどんのような伝統的な和食は、そのままで「小斎」になるわけで、日本の本来の食習慣って偉いなあ。

さて、今日も聖週間にちなんだ曲を聴く。ボヘミア生まれでJ.S.バッハと同時代人の作曲家、ヤン・ディスマス・ゼレンカ(Jan Dismas Zelenka、1679 - 1745)が書いた「聖週間のための6つの哀歌」から「聖金曜日第IIの哀歌」。ゼレンカは最近、再評価が著しい作曲家で「ボヘミアのバッハ」などと呼ばれたりするが(でも、こういう呼ばれ方ってお墓の中の本人にしてみたら不本意かも?)、プロテスタント信仰に基づいた作品を残したバッハと違い、ドレスデンのカトリック教会付きの作曲家として仕事をした人だ。音源は昨年の8月21日、フランスのSablé-sur-Sartheで開かれたバロック音楽祭での、ゼレンカ作品を集めた演奏会(マレク・シュトリンツル指揮ムジカ・フロレア&フィリップ・ジャルスキー独唱)より。YouTubeに同じ音源を使ったクリップがあった(下記)。



この曲は昨日聴いたルソン・ド・テネブルと同様、聖週間に使われた実用音楽で、エレミヤの哀歌を歌詞に用いている。ヘブライ語の哀歌の原典では各節がアルファベット順に始まる「ABCの歌」的な作りになっていたが、ラテン語に訳されたときもその名残りで、節の冒頭のヘブライ語アルファベットがそのまま残された。この作品でも、各節の冒頭でAleph(アレフ)、Beth(ベートゥ)、Ghimel(ギメル)等と、ヘブライ語アルファベットがメリスマ型に長く引き伸ばされて歌われるのが独特の効果を出している。

厳かな聖週間に歌われる、痛切な内容の曲ではあるが、妙な明るさ(そもそもヘ長調だし)に満ち満ちているのは、2日後に迎える復活祭を見据えているからだろうか。

【聖金曜日第IIの哀歌 ヘ長調 ZWV 53-6 歌詞】

(ALEPH)
Quomodo obscuratum est aurum,
mutatus est color optimus!
dispersi sunt lapides sanctuarii
in capite omnium platearum!
(なにゆえ、黄金は光を失い
純金はさげすまれているのか。
聖所の石が打ち捨てられているのか。
どの街角にも)

(BETH)
Filii Sion incliti et amicti auro primo:
quomodo reputati sunt in vasa testea,
opus manuum figuli!
(貴いシオンの子ら、金にも比べられた人々が
なにゆえ、土の器とみなされるのか。
陶工の手になるものとみなされるのか)

(GHIMEL)
Sed et lamiae nudaverunt mammam,
lactaverunt catulos suos:
filia populi mei crudelis
quasi strutio in deserto.
(乳を与えて子を養うのは
山犬ですらすること
だのにわが民の娘は残酷になり
荒れ野の喚鳥のようにふるまう)

(DELETH)
Adhaesit lingua lactantis
ad palatum eius in siti;
parvuli petierunt panem,
et non erat qui frangeret eis.
(乳飲み子の舌は渇いて上顎に付き
幼子はパンを求めるが、
分け与える者もいない)

(HE)
Qui vescebantur voluptuose,
interierunt in viis;
qui nutriebantur in croceis
amplexati sunt stercora.
(美食に馴れた者も
街にあえぎ
紫の衣に包まれて育った者も
塵にまみれている)

(VAU)
Et maior effecta est iniquitas filiae populi
mei peccato Sodomorum,
quae subversa est in momento,
et non ceperunt in ea manus.
(わたしの民の娘は重い罪を犯したのだ。
あの罪深いソドムよりも。
ゆえにその町は一瞬にして滅んだのだ。
人の手によらずに)

Ierusalem, Ierusalem,
convetere ad Dominum, Deum toom.
(エルサレムよ、エルサレムよ。
主の道に立ち返れ)
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by bonnjour | 2009-04-10 11:59 | 聴く&観る