B的日常
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ドイツ、デンマーク、フランス(一瞬)と、流浪の生活を約10年。昨年秋にポーランドに流れ着く。音楽、美術、風景、食べ物など、美しいものや変わったものを追いかけて味わうのが好き。
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美しいものや変わったもの、美味しいものを追いかけるのが好きです。日々の生活で接した、そうしたものへの感想を綴っていきます。過去の記事であってもコメントは大歓迎です。メールはこちらにどうぞ。
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ケルンで殉教した一万一千人の乙女たちとアポリネールの猥本
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St.Ursula Shrine by Hans Memling (ca. 1430 – 1494)

美術館や教会で宗教画を見ていると、上の絵のような、たくさんの乙女を従えた高貴な若い女の図像に出くわすことがある。手にはアトリビュート(その人物を示す持物)である矢を持っている。これは聖ウルスラといい、矢で射られて殉教した初期キリスト教時代の聖女である。もっとも現在では実在が疑わしい聖人として、カトリック教会の典礼暦からは外されている。

黄金伝説(Legenda aurea)」によると、ウルスラは現在のイングランドの一地方を支配していた王の娘として生まれた。キリスト教を信仰していたが、異教徒の王子から求婚される。彼女は三つの条件を出して結婚を承諾した。それは、新郎がキリスト教に改宗すること、ウルスラのために十人の同伴者と一万一千人の乙女を集めること、そして結婚の前にウルスラが乙女たちを引き連れてローマへ巡礼に出ることだった。

こうしてウルスラ一行はローマ巡礼を実現したが、その帰り道、当時フン族に包囲されていたケルン(現在はドイツ)で虐殺に逢い、お伴の一万一千の乙女たちともども殉教した。ヴェネチアのアカデミア美術館に所蔵されているヴィットーレ・カルパッチョ(ca. 1455年 - ca. 1525)による聖ウルスラ伝の連作には、殉教とウルスラの葬儀の様子が描かれている(下の絵)。

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Martyrdom of the Pilgrims and the Funeral of St Ursula by Vittore Carpaccio (c. 1465 – 1525/1526)

地元で殉教した聖人ということで、ウルスラはケルンの守護聖人の一人となっている。ケルン旧市街にある聖ウルスラ教会は、彼女の遺骸が発見された場所の上に建てられたものだ。教会内の木像でも、彼女はやはり矢を持ち、マントの下に乙女たちを従えている(いや、これがなくちゃ、誰が誰だか分からないからね)。

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中世ドイツの女子修道院長で神秘家、作曲家でもあったビンゲンのヒルデガルト(1098 – 1179)は、聖ウルスラとお伴の乙女たちに捧げる讃歌を多数書いている。それは余計な装飾がない分、かえってミニマル・ミュージックのような現代性を感じさせる。「処女」と「殉教」という、女子修道院にはもってこいのキーワードが、ヒルデガルトの作曲家魂を刺激したのだろうか。聖ウルスラは、その生涯のエピソードから、女学校教師や女学生の守護聖人とされている。

”O Ecclesia" (sequence for Saint Ursula & Her Companions) by Hildegard von Bingen


さて話は変わり、清く正しい聖ウルスラと乙女たちとは対照的に、心の中にエッチな妄想が渦巻いていた高校時代、父親の本棚に見つけて、そっとくすねた文庫本がある。ギョーム・アポリネール(1880 - 1918)作、須賀慣訳の「一万一千本の鞭」(1907)という小説だ。開高健の推薦の言葉が帯に印刷されており、「大人のための性のメルヘン! これは大人の童話である。下品で残酷、豊満で優雅、奔放で澄明な、性の童話である」云々とある。「ミラボー橋」の詩人は、猥本も書いていた! つまり、私は親父が持ってたポルノ小説を秘かに持ち出して、自分の書棚に背を奥にして隠し持っていたのである。この本は、ずっと後になって独り住まいの都内のアパートを引き払うとき、ミカン箱に詰めて船便で送った他の大量の書籍とともに、夫の実家の地下室に仮置き(というか塩漬け?涙)させてもらっている。

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あらすじ: 西洋と東洋が渾然一体となったルーマニアのブカレスト。世襲制の太守の家に生まれた美貌のプリンス・ヴィベスクは、女性がみな美人で尻軽だと伝え聞くパリに憧れ、かの地にやってくる。彼は、キュキュリーヌ(Culculine: culとは「お尻」のことなので、「尻子ちゃん」みたいな感じ?)とアレクシーヌという、二人の淫蕩なパリジェンヌと知り合い、さっそくお手合わせする(3Pね)。亡くなった親友が残した遺産を受け取るため、悪党のコルナブーを下男に伴いブカレストに旅立つプリンス。小説の舞台はパリからブカレスト、サンクトペテルブルク、旅順へと移り変わっていくが、外の世界ではセルビア王と妃がベオグラードで暗殺されたり、日露戦争が勃発したりという、激動の時代だった。そんな世情をよそに、主人公と下男は各地で様々な国籍の女たち(その中には日本娘もいる)と、サドマゾ、吸血、スカトロ、乱交、男色その他なんでもあれのハチャメチャな性のアドベンチャーを試みつつ、いきあたりばったりに強姦と殺人を繰り返していく。しかし年貢の納め時が来た。旅順で日本軍の捕虜になったプリンスは死刑判決を受け、一万一千人の日本兵が振るう鞭で打たれて死んでいくのだった。

こうまとめてしまうと、おどろおどろしく暗いポルノ小説のようにみえるが、これがバカバカしいほどに痛快なピカレスク・ロマンに仕上がっているのである。マルキ・ド・サドの作品にあるような性の哲学はみじんも感じられず、ただただ荒唐無稽なセックスが、ありとあらゆる異常性欲のバリエーションとバイオレンスを伴って展開していく。まるで、カルト・ムービーのようなポルノ小説。ちなみに本国フランスでは発表から間もなく発禁処分となり、1970年まで公刊されなかったという。

当時の私は、男子生徒には手も握らせない (握ってくれる男子生徒もいない) 硬派な16歳だったが、心の中に渦巻く思春期特有のモヤモヤとした思いは、私を東西のポルノ小説(海外のエロチック小説を集めた富士見ロマン文庫というのがあって、それを友達と回し読みしたものだ)や、パゾリーニのボカシだらけの映画(デカメロン、カンタベリー物語、アラビアンナイトの三部作が名画座にかかっていた)などに向かわせた。人生相談ではそういうとき、決まって「スポーツや勉強で発散させなさい」という回答が示されるが、あれはそんなもので発散できるモヤモヤではない。

隠れて読んだ「一万一千本の鞭」に関しては、いきあたりばったりに殺人を重ねるピカレスク小説の側面にはむしろ嫌悪感を覚えたが、残酷シーンの合間に出てくる、登場人物たちの性行為を具体的に描写する部分や、実況放送みたいな会話文に大いに興奮 (*´Д‘)ハァハァ したものである。ああ、それにしても、やらしい訳文だ。(どれだけやらしいかは、図書館または下記で説明している電子書籍でご確認のほど)。

訳者の須賀慣氏(故人)は、本名を鈴木豊というフランス古典演劇が専門の早稲田の教授。モリエールの「人間ぎらい」、「町人貴族」やエドモン・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」など古典の訳書もあるが、ポルノを訳すときは須賀慣(すが・なれる。モリエールの「スガナレル:あるいはコキュにされたと思った男」をもじった)という名を使い分けていた。

と、長々と書いてきたが、ケルンで殉教した聖女プラス乙女たちと、アポリネールの猥本の間にどんな関係があるのか、種明かしをしなくてはいけない。「一万一千本の鞭」の原作タイトルは「Les Onze Mille Verges」という。「Verges」は「鞭」の複数形だが、卑語では「Verge」は男性器を指す。そして、この単語の1番目と2番目の文字の間に「 i 」が割り込んだだけで、「Vierge」(「処女」)に早変わりする。この題名はアポリネールの言葉遊びで、ケルンでウルスラとともに殉教した一万一千人の「処女」は、たった一文字違いで一万一千の「男性器」となってしまったのだ。主人公を処刑した一万一千人の日本兵が手にした「鞭」とはすなわち、彼らの巨大なペニス(当時、海外に流出した歌麿の春画などで日本人巨根説が広まっていた)を想起させる。いったい、なんていう刑罰だ!

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こんなのを見ちゃった欧米人の間には、日本人はスゴイらしいぞという、美しい誤解が広がり…。「一万一千本」の中にも、日本の春画を飾り立てた部屋が登場する。

ちなみにアポリネールは若い頃、貴族令嬢のフランス語家庭教師としてライン地方に滞在した。ケルンの守護聖人であるウルスラと一万一千人の乙女の伝説は、彼にとって身近なものであったに違いない。

上で紹介した文庫本は絶版になっているが、電子書籍として甦り、オンラインで販売されている。273円という低価格も魅力だ。実はさっき、ポチっとやってしまった。また、原文でワクテカしたい人は、こちらでフランス語オリジナルが無料でダウンロードできる。

【つけたし】
ケルンといえば、欧州在住そして日本にいるブログ友たちが12月のケルンに集結して、女人禁制オペラ「アルタセルセ」(レオナルド・ヴィンチ作)の演奏会バージョンを観るという。まことにうらやましい。どうか、ケルンで蛮族や酔漢にからまれたりしないで、実り多くも楽しい「巡礼」をしてきてほしい。実はこの記事は彼女たちのケルン詣での景気付けのつもりで書いた。えっ、ちっとも景気付けになってないって?
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by bonnjour | 2012-11-27 20:12 | 読む
異性装する役者たち-Chantal Aubry著「La femme et le travesti」を斜め読み
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Chantal Aubry, La femme et le travesti (Arles: Editions du Rouergue, 2012)

先週、パリのギメ東洋美術館に「茶の歴史」展を見にいったら、そこのショップに面白そうな本があったので購入した。シャンタル・オーブリー(Chantal Aubry)という著者の「La femme et le travesti(女性と異性装者)」(Editions du Rouergue刊)という、今年10月に出たばかりの大型本である。男性歌手が男役ばかりか女役もこなすバロック・オペラの「アルタセルセ」(レオナルド・ヴィンチ作)ナンシーくんだりまで見に行っての帰り道、パリでこのような本に出会うとは嬉しい偶然だ。

この本は東洋と西洋におけるtravesti (異性装者:本来の性とは逆の服装をする人)の歴史とその文化的背景、それが意味するものを、豊富な図版で紹介したもの。3部構成になっており、第1部では異性装の歴史として、日本の歌舞伎や大衆演劇における女形、中国の京劇(陳凱歌監督の「覇王別姫」のモデルとなった名女形、梅蘭芳が登場する)、インド/インドネシア/ビルマにおける宗教/シャーマニズムと結びついた異性装、多神教であるギリシャ・ローマ世界の演劇における異性装、西洋のキリスト教世界での宗教劇などを取り上げている。

第2部。ここでは西洋近代における異性装役者を考察しており、私はこの部分に興味をひかれて購入したのだった。登場するのはエリザベス朝に一般的だった少年俳優による女形と、女優が演じたシェークスピア劇の男役(ハムレットを演じるサラ・ベルナールなど)。イタリア・スペイン・英国における状況、バロック期フランスにおける異性装(例えば太陽王ルイ14世は若い頃、女の姿でバレエを踊った)、そしてカストラートが活躍したイタリア(女が人前で歌ったり踊ったりするのは淫らだと考えられ、去勢男性歌手が女役を演じた時代)、フランス革命前の状況(モーツアルト「フィガロの結婚」のケルビーノはこの文脈で語られる)。そして19世紀の演劇およびオペラにおける女優・女性歌手の男装。

第3部は、19世紀末から現代に至る演劇の世界や作家・芸術家による男装と女装を取り上げ、女性解放の流れや70年代の意識革命との関連を論ずるもの。三島由紀夫の「サド侯爵夫人」や、乱歩の原作を三島が戯曲化した「黒蜥蜴」(美輪明宏演じる美貌の女盗賊と木村功の明智小五郎が顔を寄せ合う、妖しくも美しい写真あり)なども例に挙げられている。

白状してしまえば、私も高校生ごろから30に手が届くころまでは異性装じみた服装が好きな女であり、テーラードのパンツスーツ、ネクタイ、カフリンクスといったものを好んで身に着けていた。それは、女らしさを強調する服より、ありのままの自分をよく表現できると感じたからだが、会社の口の悪い同僚からは、「なんだお前、レズビアン・バーのママみたいな格好して」と茶化されて苦笑した。そうした装いをしなくなったのは、加齢とともに男装的ファッションが「痛く」なってしまったからである。

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第2部「近代西洋における異性装役者」の「カストラートたちのイタリア」より。

上の写真の左ページにある写真の説明: 「カウンターテナーのフィリップ・ジャルスキーは、女性を演じたことはない。バロック期の作曲家ステファノ・ランディによる宗教オペラ『聖アレッシオ』では、彼はこの聖人を演じた。共演したのはマックス・エマニュエル・チェンチッチやクサヴィエ・サバタなど、7人のカウンターテナーである。」

オール男性キャストによる「聖アレッシオ」の上演(2007年)が例に挙げられているだろうと思ったら、やっぱりそうだったが、今回の「アルタセルセ」の上演が、この本の執筆に間に合わなかったのは残念だ。

右ページの写真の説明: 「1998年にリヨン国立歌劇場で上演された、ペーター・エトヴェシュ作曲、ケント・ナガノ指揮、天児牛大演出の『三人姉妹』に出演したベジュン・メータ(写真中央)。」音を聴いていないのでなんともいえないが、写真だけでもインパクトがある。衣裳とメイクは、故・山口小夜子が担当している。



「聖アレッシオ」で主人公の妻を演じるチェンチッチ(上の動画)。新婚初夜に自分を置いて神を求める放浪の旅に出てしまった夫アレッシオ(フィリップ・ジャルスキー)を思い、息も絶え絶えに嘆くチェンチッチの演技は鬼気迫るものがあった。後ろには、乞食に身をやつして家に戻り、階段の下に住みついたアレッシオ。身元を明かしたくても神への愛ゆえに明かせない、揺れ動くアレッシオの心情表現も見どころである。フェミニンな顔立ちでソプラノに近い声質のジャルスキーが男役、顔だけ見たらどうやっても女に見えないチェンチッチが女役を演じている。



ダニエル・シュミット監督が坂東玉三郎にスポットを当てて日本の伝統芸能に迫るドキュメンタリーThe Written Face(書かれた顔)(1995年)。
「男の画家が女を描くのと同じように、(自分は)女形を描いてきた。男の作家が女の気持を書くのと同じように、ある種の客観性をもって、自分の人間的な魂に乗っけて、女の理想、これが女なのじゃないかと思うエッセンスみたいなものを描いてきた。それが、女形なんじゃないか」と語る玉さま。この言葉は、上記の本「La femme et le travest」にも引用されている。

「聖アレッシオ」の制作にあたっては、歌手たちに玉三郎のビデオを見せて、男が女を演じることの本質を掴んでもらったという逸話がある。彼らに見せたビデオとは、このドキュメンタリーではないだろうか?

さて、話は変わりオペラ「アルタセルセ」だが、これが初演されたローマでは当時、教皇の命令により女性が舞台に立つことは禁止されていた。そういう事情から、作曲段階から男女すべてのキャストに男性歌手(カストラートおよび非カストラート)をあてて書かれた作品であるが、ここではカストラートは女性歌手の代用品ではなく、オペラの「必需品」になっている。高音を無理なく出せる少年の声帯を維持しつつ、肺活量の大きい成人男性の体躯(去勢によるホルモン異常で、むしろその身体は巨大化する傾向にあったという)を持ったカストラートたちは、幼い頃からの音楽のスパルタ教育の甲斐あって、人間離れした美声と高度な技巧を兼ね備えたスーパースターだった。(ただし、去勢された子供たちのうち、才能に恵まれカストラート歌手になれたのはごく少数であり、そのまた少数がスターの座につけるという、極めて歩留まりの悪い残酷な世界である)。

さらにいえば、人工美の極致といえるカストラートの歌声の音楽的魅力に加え、男性歌手ばかりの舞台で繰り広げられる、性別と役柄がねじれた虚構の世界に当時の観客はワクワクしたのではないか。しかも、英雄や美女を演じているカストラートたちは、美しい歌声と引き換えに男性としての生殖機能を奪われた、マージナルな存在である。男であって男でない人々。人間であって天使の声を持つ人々。これが二重の「ねじれ」を生む。

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Photo: Opéra national de Lorraine

翻って、ナンシー歌劇場の「アルタセルセ」は、カウンターテナー唱法という極度に洗練されたテクニックを持つ、現代の(肉体的にはなんの小細工も施されていない)歌手たちが、かつてのカストラートのパートを歌うという試みだ。安定した音色、正確な音程、広い声域など、いくつものハードルをクリアしたうえで、芸術性の高い歌唱ができる若手のカウンターテナー歌手を5人も揃えたのは快挙である。そんな彼らが演じた男女の恋人どうしは、どうだったか。

アルタセルセ王の親友アルバーチェ(男)を演じるフランコ・ファジョーリ(上の写真右側)の、妙につるりとした風貌はどちらかというと女性的だし、その恋人であるマンダーネ(女)役のマックス・エマニュエル・チェンチッチ(同・左側)は、鼻や顎の線がはっきりとした精悍で男性的な容姿である。この二人による第3幕の二重唱「Tu vuoi ch'io viva o cara!」(下の動画)は、あくまでも美しく、心を打つ歌であるが、メゾソプラノの音色でありながらその芯にはあきらかに男性を感じさせる2つの声がからみあい、ハーモニーを奏でるところに、たまらない倒錯性を感じてしまう。とりわけ、低音部での胸声を混ぜた発声でこの二人のカウンターテナー歌手がハモるところなんて、目と耳から入ってくる情報だけでは男女の愛の歌なのか男どうしの愛の二重唱なのか訳が分からなくなってきて、なんだか覗いてはいけない世界を覗いてしまった気がした。



【つけたし】
「アルタセルセ」でファジョーリの驚異的な歌唱に接し、今自分の中でこの歌手がブームになっている。そんなファジョーリの「普及活動」にかなり前から取り組み、彼のレパートリーや出演情報、放送およびディスク発売予定などをこまめに発信してくださっているのが、ブログ友であるアルチーナさんだ。ファジョーリに興味をもった方は、「アルチーナのブログ」を訪問してみよう。また、ウィキペディア(日本語版)の彼のページも必見。(だって bonnjour が投稿したんだもん)。

【余計なひと言】
「アルタセルセ」におけるチェンチッチの、容姿でなく歌と仕草で見事に女を演じた名女優ぶりは、「マルシャリン」を彷彿とさせる瞬間もあったといったら、シュヴァルツコップのファンに殴られてしまうかな?

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Photo: Opéra national de Lorraine

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Photo: Elisabeth Schwarzkopf as the Marschallin in Richard Strauss' Der Rosenkavalier
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by bonnjour | 2012-11-23 02:08 | 読む
ロレーヌで生まれてナポリで活躍したカタストロフィ画家
先週ナンシーで見たレオナルド・ヴィンチのオペラ「アルタセルセ」は、舞台の中ほどに置かれた大きなスクリーンの幻想的な絵画が印象的だった。古代神殿のような建物の内部で、円柱が派手に崩壊している絵である。

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↓ アップになると、こんな感じ。
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この絵の作者はモンス・デジデリオ(Monsù Desiderio)といい、フランソワ・ド・ノメ(François de Nomé)、ディディエ・バラ(Didier Barra)、そして少なくとももう一人の氏名不詳画家の共同ペンネームである。ド・ノメとバラは、ともに16世紀末にロレーヌ地方のメスに生まれ、イタリアに渡って17世紀前半のナポリで活躍した。

舞台装置ではグリザイユ(モノクロ絵画)になっているが、オリジナルは「偶像を破壊するユダ王国のアサ王」という作品(下写真)だ。画面右手の、円柱が崩れ落ちて火が上がっているところなど、さしずめ現代の劇画なら「ガラガラ、ドスン」などという書き文字が使われそうな勢いだ。
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モンス・デジデリオ「偶像を破壊するユダ王国のアサ王」

この絵でみるような、カタストロフィをテーマにした作品が、モンス・デジデリオの特徴であり、それは混乱と不安の時代を反映したものであるという。文筆家のグスタフ・ルネ・ホッケは、名著「迷宮としての世界」の中でデジデリオを、最後の偉大なマニエリスム芸術家と呼んでいる。マニエリスムとは、盛期ルネサンスとバロックの合間に出現した、極度に技巧的・作為的で誇張や非現実性に彩られた芸術様式であり、それが生まれた時代背景にはローマ略奪(1527)、宗教改革、ローマ教皇の権威の失墜といった世の中の混乱がある。

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モンス・デジデリオ「炎上する遺跡」

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モンス・デジデリオ「スザンナと長老たち」

さて、モンス・デジデリオことフランソワ・ド・ノメとディディエ・バラは、ロレーヌ地方に生まれ、ナポリで活躍したと書いた。そして今回は、ロレーヌ国立歌劇場(ナンシー)で上演されたナポリ楽派の主要な作曲家であるレオナルド・ヴィンチのオペラに、その絵画作品が舞台装置として使われた。この符合が、なんだか嬉しい。
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by bonnjour | 2012-11-18 00:20 | 聴く&観る
ナンシーの旅 雑記帳
女人禁制オペラを追っかけた今回のナンシー旅行&パリ滞在(11/6-13)だが、その合間には普段の運動不足を解消するかのように街歩きに励んだ。

ナンシーといえば、街の中心部にある華麗なスタニスラス広場(を含む一帯が世界遺産に登録されている)と、かつてのアールヌーヴォー運動の一拠点としての顔が有名だ。ドイツ国境に近いロレーヌ地域圏にあるこの都市は、街並みもどことなく北方の香りを感じる。

まずはスタニスラス広場。実はナンシー歌劇場は、この広場を構成する重要な要素になっており、私が泊ったホテルもこの広場を突っ切ってほど近い場所にある。ナンシー駅に降り立ち、ホテル目掛けて歩いていたら、目の前にこの壮麗な広場が突然現れたときの感動をご想像いただきたい。

↓ 広場の夜景。双子みたいな建物の左側が歌劇場。右は老舗高級ホテルの「グランホテル・ド・ラ・レーヌ」で、マリー・アントワネットが故国オーストリアからフランスへの輿入れの途中で投宿したという逸話がある。
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↓ 昼間はこうなる。後景の建物は市庁舎。銅像の主は、かつてここを治めていたロレーヌ公スタニスラスで、広場は彼が作らせたもの。この人は祖国ポーランドで王様をやってたが、パワーゲームの中で王位を追われ、娘婿であるフランス王ルイ15世の温情により、当時フランス領になったばかりのロレーヌ地方の統治を一代限り認められた。善政を敷いた支配者として慕われたので、銅像の台座の銘には「A Stanislas le Bienfaisant, la Lorraine Reconnaissante(恩人たるスタニスラスに捧ぐ。ロレーヌは感謝の心で一杯である)」と刻まれている。卑近なたとえでいえば、会社を乗っ取られたオーナー社長が、知人の伝手で別の会社の雇われ社長になり、そこで名経営者として社員に慕われた、みたいな感じか。
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↓ 美しいロココ様式の金属細工の柵が広場を取り囲んでおり、それがこの広場の特徴となっている。
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↓ オペラの中身も大事だが、その容れ物となる歌劇場も、外観、内部ともにとても美しく、オペラに行くときのワクワク感を高めてくれる場になっている。
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↓ 幕間には飲み物が供されるホワイエ。シャンパン1杯にカナッペ3点(塩味2点、甘味1点)がついて8ユーロ(≒800円)という、地方ならではの良心価格に泣いた。ついでに今回のオペラの料金も、最上カテゴリーの席が59ユーロ(≒5,900円)という、武蔵野文化事業団すら負けそうな良心価格である。地方文化の拠点として地元の人に愛されていることは、あまり気負わない普段着に近い服装の人が目立つ観客を見ても分かった。
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↓ 「アルタセルセ」CDの看板を発見。ロビーでジャルスキーとチェンチッチのCDを即売していた。
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↓ ロレーヌ公の館を転用したロレーヌ地方博物館は、この地方が生んだ偉大な画家、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「蚤をとる女」を所蔵している。蝋燭や松明が発する光と、闇との強いコントラストが特徴的なこの画家を偏愛している私としては、ぜひとも立ち寄るべき場所だ。
(博物館内はフラッシュ不使用での写真撮影を許可)
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↓ 同じく博物館にて。尻フェチ。
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↓ こちらはスタニスラス広場に面したナンシー美術館。14世紀から現代までのヨーロッパ絵画をコレクション。また地元出身のガラス工芸家、ドーム兄弟の手によるアールヌーヴォーおよびアールデコ・スタイルのクリスタル製品やガラス工芸品を展示している。真ん中のペルジーノの聖母子像が、可愛いすぎ。
(美術館内はフラッシュ不使用での写真撮影を許可)

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↓ ナンシー美術館は、階段すら美的センスにあふれている。
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↓ 中心部から少し外れた住宅街にあるナンシー派美術館。ウジェーヌ・コルバン(ガラス工芸家エミール・ガレのパトロン)の邸宅だった建物で、アールヌーヴォーの一派であるナンシー派の美術品を展示している。というより、むしろ住宅という外枠を利用してアールヌーヴォーの建築、工芸品、ガラス製品、織物などをふんだんに盛り込んだ総合展示場のような場所。サロンに置かれたピアノに、ちょんまげ姿のお侍の絵が装飾としてあしらわれていたのには驚愕というか苦笑した。アールヌーヴォーに特徴的なジャポニズムの表れか?
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↓ ナンシーは街全体がアールヌーヴォー様式の展示場のようなところ。建築マップ片手に街を巡れば興味が尽きない。
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【番外編】
ナンシーで3泊した家族経営の小さなホテル。歌劇場の裏手という、オペラ鑑賞には最適のロケーション。そのため、宿泊者の多くはオペラ目当てで来ている人たちだった。
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by bonnjour | 2012-11-16 04:30 | 旅する
ナンシー歌劇場「アルタセルセ」をライブ放映
ナンシーのロレーヌ国立歌劇場で上演されたレオナルド・ヴィンチのオペラ「アルタセルセ」は、千秋楽の11月10日の公演が欧州のクラシック音楽専門チャンネルMezzoでライブ放映された。チャンネル契約者以外は見られなくて悔しい思いをしていたら、熱烈ファンが早速、さわりの部分をYouTubeにアップしてくれているのでご紹介する。

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冒頭のシンフォニアでは、衣裳をつける前のTシャツ(ナンシー歌劇場のロゴ入りだ)やバスローブ姿の歌手たちが舞台に一列に並ぶ。彼らが、これからこのオペラの登場人物に変身して物語が繰り広げられる、という舞台裏を見せるような演出。若くて威勢のいい男が6人も横一列に並ぶと、それだけでじゅるっとなってしまう この作品への期待感が高まるのだった。



第1幕、Scena IV+V: Per pietà, bell'idol mio (アルタセルセのアリア)。抒情的なアリアを歌わせたら並ぶ者のないジャルスキー(アルタセルセ役)。すれ違う恋人たちの心を象徴するかのように、前景のアルタセルセと後景のセミーラ嬢(サバドゥス)が交差する。白鳥のような衣裳を着けたサバドゥス君の可憐なダンスも見もの。



第1幕、Scena XIV: Vo solcando un mar crudel (アルバーチェのアリア)。今までの深刻な物語とまったく無関係に、突然ファジョーリ(アルバーチェ役)が伝説のカストラートかと見まごうばかりの派手衣裳とバロック・ゼスチャーで歌いだす超絶技巧アリア。別名、失神アリア。舞台を見た私は、ファジョーリがイキナリやらかしてくれた!と度肝を抜かれた。下のビデオの8:35頃には、歌謡ショーばりに、金色の紙吹雪が一面に降り注ぐのが見えるだろう。1幕目最後のこのアリアに、盛大なブラボーが飛んだのは、ビデオで見る通りである。



第2幕、Scena VI: Se d'un amor tiranno (マンダーネのアリア)殺された父王の復讐を願う気持ちと、下手人とされる恋人アルバーチェへの思いの間で揺れ動く女心をせつせつと歌いあげるチェンチッチ(マンダーネ役)。衣裳に目を移せば、女らしいマンダーネはオレンジ色のドレス、清楚なセミーラは緑色のドレスと色彩の対比も美しい。でもってマリー・アントワネットのように高く結いあげた髪には薔薇の花が飾られていて。そこまで、やるか!(笑)



第3幕、Scena VII: Tu vuoi ch'io viva o cara (アルバーチェとマンダーネの二重唱)。アリアが次から次へと放たれるこのオペラ唯一の二重唱にして、心を打つ美しい旋律の作品。衣裳とメイクのせいもあるが、生物学的には男である2人の歌手が男女の愛の二重唱を歌っていても、まったく違和感がない。それは上辺ではなく、女の「心」を歌っているからだろう。芸術の勝利。まさに、歌舞伎の世界。

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"Quando finisce, o dèi, la vostra crudeltà!"(おお、神々よ、あなたの無慈悲はいつになったら止むのでしょう)の”la vostra crudeltà!”(あなたの無慈悲)に現われる平行3度がゾクゾクするほどきれい(上記)。あと、下のビデオの1:22および5:21のあたりで、「crudeltà!」の語尾の「tà!」が、二人とも胸声をミックスした男性的な声になるのが変態チックでよい。



【余談】
ファジョーリ(下の写真右)は素顔がのっぺりしているせいか、白塗りメイクですごい色男に変身する。まるで男役の歌舞伎役者みたいだ。相手役のチェンチッチ(同・左)は顎が割れている男性的な顔立ちだけど、女性の仕草をよく研究していて見事に化けている。

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でもって、ファジョーリって「ソラマメ」に似てませんか?いや、苗字からの連想(fagioli = 豆)かもしれないけれど・・・。

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by bonnjour | 2012-11-13 10:59 | 聴く&観る
5人のカウンターテナーを追っかけてナンシーまで (続編):「アルタセルセ」公演再訪 


5人のカウンターテナー、プラス1人のテノールによる、耳にも目にも鮮やかで豪華なバロック・オペラを追っかけてナンシーまでやってきたのが一昨日。せっかく来たからには同じ公演を2回観て帰らなければ勿体ない、ということで11月8日(木)夜に再訪した。前回はオペラの筋を追うので精一杯だったが、2度目ともなるともう少し踏み込んで鑑賞できた。

今回は、公演で発見したこと、自分なりに感じた「このプロダクションの見どころ」について、いくつかの項目に沿って書いてみたい。

カウンターテナーの多彩な音色の競演

カウンターテナー(CT)は声種にすぎないので、ソプラノにレッジェーロからドラマティコまであるのと同様、歌手によってその音色やスタイルはまちまちだ。今回のプロダクションは、若手世代の大スターおよび期待の新星といえるCT歌手5人を聴き比べできる、嬉しい機会となった。

タイトルロールのジャルスキーは、少年のような透明感のある極めて独特な声の持ち主で、ピアニッシモの美しさと見事なブレスのコントロールで感情をきめ細かく表現する人だ。悩み多いアルタセルセの内面を表現するのに彼ほど適した歌手はいないだろう。

ジャルスキーとならぶCT界の大スター、チェンチッチは、上質のビロードのような質感の声の持ち主で、とても官能的な歌唱をする。安定感も抜群。おまけに女役の演技はひとつの様式美を生み出している。

男バルトリの異名を取るファジョーリ。スターの階段を超高速で登っている。大変に豊かな響きの中音域と輝かしい高音域、そして時たま「男」を感じさせる低音の胸声を駆使して難曲をやすやすと歌ってみせる。末恐ろしい才能だ。

1986年生まれと若いのに堂々と舞台をつとめたサバドゥスの声質は、チェンチッチに近い「ビロード系」だと思った。2幕目のアリア「Per quell'affetto」のカデンツァではディーバ的(女役だから)な高音の技巧を披露して、これまた将来が楽しみな歌手。

これまた若いミネンコの声は、明るくて軽め。1幕目のアリア「Sogna il guerrier le schiere」や2幕目の「Non temer ch'lo mai ti dica」は、速いパッセージを軽快に歌いきった。将来、声がどのように円熟していくか興味がある。

演歌バロック?

CTファンのブログ&Twitter仲間の間で「これって演歌?」と話題になったのが、チェンチッチの歌う1幕目のアリア「Dimmi che un empio sei」。父王殺しの犯人とされた恋人アルバーチェを憎もうとしても憎みきれない、相克する女心を激流のようなテンポで歌う。緊迫感あふれるオケの演奏も素晴らしい。



もうひとつ「演歌」だと思ったのは、アルタセルセの1幕目のアリア「Deh respirar lasciatemi」。親友アルバーチェを裁くことを迫られ、苦しい胸のうちを告白するアリアだ。これは上記とは対照的に「男系」の演歌。



カストラートのパロディ?

アルバーチェ役は、作曲当時のカリスマ的カストラート、カレスティーニのために書かれた。1幕目最後のアルバーチェのアリア「Vo solcando un mar crudel 」をファジョーリが歌いだすと、物語の前後の脈絡を無視して衣裳は急に純白の上衣とジレ、ひざ丈のキュロットというバロック様式になり、ルイ14世みたいなかつらまで頭に載せる。(このかつらが、なぜか頭のてっぺんに「猫耳」状の塊がついている奇怪なもので、漫画世代の私は「綿の国星かよ」とつぶやいてしまった)。そして振り付けにはバロック・ゼスチャーが使われている。往年のカストラートが技巧の限りをつくしてアリアを披露し、ご婦人方が失神したという逸話をパロディにしたものに違いない。

↓ 大見得を切ったカストラート的歌唱。最後には失神寸前のアルバーチェ=ファジョーリ
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Photo: Opéra national de Lorraine

歌舞伎の女形を研究してる?チェンチッチと、「白鳥の湖」みたいなおぼこ娘サバドゥス

チェンチッチの「見かけでなく動作で女を感じさせる」女役ぶりは、歌舞伎の女形を参考にしているのでは?異性である男性が女を「演じる」からこそ真に女らしい演技ができる、という意味の玉三郎の言葉は、チェンチッチにもあてはまる。
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Photo: Opéra national de Lorraine

そしてもう一人の女役、サバドゥスはおぼこ娘役にふさわしい、真っ白な羽根を多用した衣裳で登場し、まるで「白鳥の湖」だった。しかも、バレエでいうところの「pas de bourrée couru」(実例ビデオはこちら)みたいな動きでチョコチョコと歩くのだからますます白鳥化している。恋人アルタセルセの1幕目のアリア「Per pietà, bell'idol mio」の最中に、サバドゥスの可憐な白鳥ぶり(下の写真)が堪能できる。

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ちょっとこれ↓が入っているけど(笑)。
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2人のバロック紳士が織りなす「友情」というにはあまりに濃い友情

ジャルスキーとファジョーリが怪しいのである。いや、役柄の上だけの話だけど。セルセ王殺しにより、無二の親友同士であるアルタセルセとアルバーチェの間には大きな溝ができてしまうが、アルタセルセはアルバーチェを見捨てることができない。3幕目にアルバーチェが「海から分かれた水は、いつも大海に戻ることを夢見ている」という比喩でアルタセルセに対する忠誠心を打ち明けるアリア「L'onda dal mar divisa」では、2人は白塗りメイクでバロック衣裳に身を包み、これまたバロック・ジェスチャーが出てくる。そしてアルバーチェ・ファジョーリをうっとりと(ねっとりと?)見つめるアルタセルセ・ジャルスキー。「友情」というにはあまりに濃すぎると思わないか?この場面だけ、なんだか違った空気が流れていた。
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Photo: Opéra national de Lorraine

モーツアルトにも通じる天国的な二重唱(チェンチッチ&ファジョーリ)

カストラートの名人技を聴かせるのが目的とばかり、ソロのアリアばかりが立て続けに登場する当作品だが、3幕目にはアルバーチェとマンダーネのカップルによる二重唱「Tu vuoi ch'io viva o cara」が用意されている。その美しさは天国的と表現してよいだろう。そして、感情の動きに合わせた転調の妙。あまりの美しさに、私は不覚にも泣いてしまった。



幸い、パブリックドメインの楽譜ライブラリーIMSLPに楽譜がアップされているので、それを見ながらきくとますます味わいが深い。そして相方を見つけて自分で歌ってみたら、ますます味わいが深くなると思う。

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            (女)いやよ。               (女)行って。
   (男)きいてくれ。         (男)・・・君は。



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(女)目の前から消えて頂戴。        (女)ほっといて、お願いだから。
                   (男)愛しい人。 

この曲を聴いて、私はモーツアルトのオペラに登場する数々の二重唱を連想した。例えば「フィガロの結婚」の伯爵とスザンナの二重唱「Crudel Perche Finora」。二人の掛け合いの妙や、ハーモニーの美しさなど、通じるものがないだろうか。牽強付会なことをいえば、モーツアルトは幼い日、父レオポルドに連れられて当時のオペラの中心地ナポリ(「アルタセルセ」の作曲者ヴィンチもナポリで活躍した人だ)を訪れており、後年のオペラ作品にも伏流水のようにナポリ派の伝統が流れているというではないか。


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by bonnjour | 2012-11-09 09:52 | 聴く&観る
5人のカウンターテナーを追っかけてナンシーまで: ロレーヌ国立歌劇場の「アルタセルセ」を観る
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ピエトロ・メタスタージオ(1698 – 1782)の台本にナポリ楽派の作曲家レオナルド・ヴィンチ(1690 - 1730:モナリザの人とは別人)が曲をつけたオペラ「アルタセルセ」を観に、フランスのナンシーまで出かけた。たまたまブラジル赴任中の夫が仕事を兼ねてマルセイユに帰省しているので、現地で落ち合うというのを口実きっかけにした旅行である。

今回はロレーヌ国立歌劇場(ナンシー)と、カウンターテナーのマックス・エマニュエル・チェンチッチやフランコ・ファジョーリが所属する音楽事務所のParnassus Arts Productionとの共同プロデュースで、作曲当時と同じ、男性歌手だけを起用したプロダクションである。しかも当時はカストラート全盛時代のため、現代の演奏ではカウンターテナーが5人にテノールが1人という、ある種いびつな構成になった。キャストは、カウンターテナーが上記のチェンチッチ(声も姿も女になりきるのが上手)とファジョーリ(男バルトリ?)に加え、フィリップ・ジャルスキー(フランスの恋人?)、ヴェラール・バルナ=サバドゥス(ルーマニアの新星)、ユーリ・ミネンコ(ウクライナ産も負けてません)。そしてテノールがフアン・サンチョ(スペインの色男)。オケはディエゴ・ファソリスを指揮に迎えたコンチェルト・ケルン。テノールの配役だけ変えたCDが先月リリースされていて、オペラの舞台への期待感をあおるのは巧妙なマーケティングである。

【スタッフ】
音楽監督 : Diego Fasolis
演出 : Silviu Purcărete
美術・衣裳・照明 : Helmut Stürmer
照明 : Jerry Skelton
バロック・ジェスチャー監修 : Nathalie van Parys
化粧 : Cécile Kretschmar

【キャスト】
アルタセルセ(ペルシャ王子。後に王): Philippe Jaroussky
マンダーネ(アルタセルセの妹。アルバーチェと恋仲): Max Emanuel Cencic
アルタバーノ(王室護衛隊長。アルバーチェとセミーラの父) : Juan Sancho
アルバーチェ(アルタセルセの親友、マンダーネの恋人) : Franco Fagioli
ゼミーラ(アルバーチェの妹。アルタセルセと恋仲) : Valer Barna Sabadus
メガビーゼ(ペルシャ軍の大将でアルタバーノの腹心。セミーラに横恋慕) : Yuriy Mynenko


【あらすじ】
時は古代ペルシャ。王セルセ(クセルクセス)は、彼を憎む王室護衛隊長アルタバーノ暗殺される。アルタバーノの息子アルバーチェは王女マンダーネと恋仲だが、身分違いといわれ王から交際を禁じられていたのだ。アルタバーノは王の血にまみれた剣をアルバーチェの剣と交換すると、素知らぬ顔で王殺しの罪を王子のひとり、ダリオ(ダレイオス)になすりつける。しかしアルタバーノの最終的な目的は、セルセ王の後を継いで即位した王子アルタセルセ(アルタクセルクセス)をも暗殺して、自分の息子アルバーチェをペルシャの支配者にすることだった。

アルタセルセはダリオの処刑を命じるが、思い直して命令を撤回する。しかしダリオの処刑はすでに執行されていた。後悔するアルタセルセに、ダリオが無実だったとの知らせがもたらされる。血塗りの剣が証拠となり、新たに王殺しの下手人として捕らわれたのはアルバーチェだった。自分の潔白を主張すれば父親を死なせることになるアルバーチェは、申し開きをためらう。一方、アルタセルセは親友アルバーチェがまさか父王を殺したなんて信じられない、信じたくないと煩悶する。

恋人ゼミーラ(アルバーチェの妹)からはアルバーチェの寛大な処置を、反対に妹マンダーネからは父王の復讐としての極刑を懇願されて板挟みになったアルタセルセは、判断をアルタバーノに委ねる(王様のくせに、そこで丸投げするんかい)。アルタバーノは自らの息子に死刑を宣告するが、それは見せかけで裏では王室への反乱を企んでおり、腹心のメガビーゼには、その見返りとして自分の娘ゼミーラをアルタセルセから引き離して彼に嫁がせる約束をしていた。

無実の罪で死刑を宣告されたアルバーチェの運命は? アルタセルセの身の安全とペルシャ王室の存続は? 王室打倒計画の中で仲を引き裂かれた2組の恋人はどうなる? そして、美しい(すぎる)友情で結ばれたアルタセルセとアルバーチェが再び笑い合える日は来るのか?


ナンシー歌劇場は1919年に建てられた、小ぶりで非常に美しいオペラハウス。バロック・オペラを観るのには最適の会場だ。

さて席に着くと、開演前だが舞台には幕が下りておらず、下手に楽屋用の化粧台が置かれて、そこで2人の歌手(ジャルスキーとチェンチッチ)がTシャツ姿でメイク中である。オペラのストーリー全体を劇中劇に見せかけるような、なんとも奇抜な演出(ルーマニア出身のシルヴィウ・プルカレーテによる)。シンフォニアの演奏に続き、ペルシャ王女マンダーネ(チェンチッチ)と、王子(後に王)の親友アルバーチェ(ファジョーリ)の密会シーンから物語が始まり、王の暗殺あり、死刑あり、毒殺未遂あり(上記あらすじ参照)のおどろおどろしくも絢爛豪華なバロック・オペラが展開する。

アルバーチェは伝説的なカストラート、ジョバンニ・カレスティーニのために書かれた役で、ストーリー展開上、重要な役割を果たし、音楽的にも演奏効果の高いアリアを多数与えられている。この役をこなすには相当な技巧と、曲を空虚にしないための音楽性を要するが、ファジョーリは神がかったような歌唱で圧倒的な存在感を示した。とりわけ1幕目最後のアリア「Vo solcando un mar crudel」は、往年のカストラートたちはこんな歌唱をしたのではと幻想を抱かせるような迫力があった。しかも衣裳と振り付けは、まるでカストラートのパロディで、大見得を切って観客の歓声(と失神)を誘導するかのよう。アリアの最後には後ろに控えた黒服の黙役が金粉を雨のように降らせるのだから、あっけにとられる。観客から沢山のブラボー!が飛んだのは、言うまでもない。



タイトルロールのアルタセルセは父王を殺され、親友アルバーチェが犯人として捕らわれるという悩み多い、内省的な役柄。その内面を、ジャルスキーは明瞭かつ流麗なレチタティーヴォで見事に表現していたと思う。透明感のある声質で、まったく崩れたところのない清潔なディクションで歌うジャルスキーは、「いい人」役にぴったり。イタリア語の響きが好きな私は、オペラではアリアにもましてレチタティーヴォの美しさに参ってしまう性質だが、プライベートにこんなレチタティーヴォで語りかけられたらイチコロであろう(そんなチャンスは絶対に来ないが)。

男性歌手が女装して歌うというのはセンセーショナルに報じられるが、今回その籤を引いたのはチェンチッチ(ランディのオペラ「聖アレッシオ」でも主人公の嫁役がはまっていた)とサバドゥス君。チェンチッチは誇り高いマンダーネ姫(ツンデレ?)を、男が女を演じているグロテスクさを感じさせずに歌いあげたのはさすがだ。しなの作り方は、地でなくて演技だと思いたい。新星サバドゥス(1986年生まれ)も、先輩歌手たちにまじって健闘していた。長身で眉毛の濃い男性的な容姿だし、声質はアルトだと思うが、時折りはっとするような女らしい姿を見せるので、なんだかイケナイものを見てしまったような気がした。

ミネンコ演ずるメガビーゼは、王室への反乱を企む一味で、嫌がるゼミーラに言い寄る恋敵でもある損な役柄。そのため、あまり感情移入ができなかったせいか、1幕目では強い印象が残らなかったが、後半になって迫力が出てきた。悪の元締めアルタバーノは、5人のカウンターテナーと対峙し、たった一人でテノールの音色を添えて音楽的色彩感を豊かにする「差し色」みたいな役柄で、セビリア出身の若いテノールのサンチョスはその重責を力一杯果たしていた。ミネンコとサンチョス、そして前述の通りチェンチッチとファジョーリは皆、Parnassus Arts Productionの所属で(CD版のテノール、ダニエル・ベーレも同様)、Parnassusは持ち駒を自在に使ってこのオペラをプロデュースした。幕間のロビーでこの事務所のオーナー兼代表であるジョージ・ラング氏(カウンターテナー・ファンの私たちはFacebookでラング氏の「友達」になって、遠くから声援を送っている)を見かけたが、プロデュース作品の成功に心躍る思いだろう。

この作品はナンシー歌劇場の後、テアター・アン・デア・ウィーン、ローザンヌ歌劇場、パリ・シャンゼリゼ劇場、ケルン歌劇場で演奏会形式の上演が行われる。詳細はこちら

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写真上:ナンシー歌劇場が発表したカーテンコールの様子。
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by bonnjour | 2012-11-07 08:31 | 聴く&観る